石ころ

この天地は滅び去ります(マタイ24章)





 この天地は滅び去ります。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。(マタイ24:35)



滅びの時のしるしは偽キリストが現れ人の心を惑わし、世界に戦争や戦争のうわさ、民族紛争や飢饉や地震が起こるが、それは産みの苦しみのはじめだと書かれてあり、非常に困難な時代となる。



そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。(マタイ24:21)



マタイ24章にはその時のしるしが詳しく書かれてあるが、
人は、滅びの時を待たなくても一度死ぬことと、死後の裁きを通ることがさだめられているとある。
それは、御子イエス・キリストの十字架のあがないを、信じ受け入れなかった罪を問われるのである。十字架はすべての罪をあがなうものであるから、罪が問われるのはイエスさまの十字架を信じないことだけなのである。



また、天からこう告げる声が聞こえた。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。」(マタイ3:17)


神はご自身が創造された人を愛し、御子イエスさまの十字架に置いて、すべての罪をあがなってくださった。「滅びのゲヘナに行くな、私の元に帰って来いと・・。」



イエスさまは父なる神のご計画を完全に成し遂げて、十字架で人の罪を負って取りなし、ムチと嘲りとののしりを受け負われた罪の故に、罪を見過ごしにできない御父に捨てられ究極の孤独を通ってくださった。



罪の無いイエスさまが十字架で死刑とされ、墓に葬られ、三日目によみがえって、当時の人々500人以上に現われて天に帰られた。歴史的なこの事実を感謝して受け入れるなら、永遠の苦しみから免れ神の子として天に迎えられる。



イエスさまは今、天の御父の右の座におられて、祈る者のために取りなしていてくださる。イエスさまは人の世と人の弱さをよくよくご存じだからである。
しかし、御救いは死後のことだけではなく、今信じた瞬間に、父なる神さまと御子イエスさまと聖霊は私と共にいてくださる。



だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。(Ⅰヨハネ4:15)



 この世を生きる間もすべての助けによって、天の前味を味わう時となる。信じたときから天の御国は身近なものとなり、何時か死んだら行くのだろう・・という曖昧なことではないのだ。



死がゴールという事実から目を背けて生きるなら、人は生きる目標に迷い・・病むだろう。目の前の人参だけを見て走るようには、人は創造されていないのだから・・。



すべての人には裁きの時があり、永遠のいのちか、不信仰の結果の終わらぬ苦しみかが待っている。それを選ぶことができるのは、今生きているこの時間だけである。「今は恵みの日」なのだ。
この天地は滅び去り、今の命にも限りがある。



救いのためのすべての必要は父なる神の愛によって、御子イエスさまを犠牲にして準備してくださった。今、へりくだって永遠のいのちを受け、終わりのない火の苦しみを免れるようにとイエスさまが待っていてくださる。



こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。(Ⅱコリント5:20)


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