彼女はパウロと私たちのあとについて来て、「この人たちは、いと高き神のしもべたちで、救いの道をあなたがたに宣べ伝えている人たちです」と叫び続けた。(使徒16:17)
占いの霊につかれた女が証しすることに、パウロ達は困り果てたとある。彼女は真実を語っているが、その言葉の出所は占いの霊からであった。占いは偶像礼拝の罪とあり悪霊に拠るのである。
イエスさまも悪霊がご自身を証しすることはお許しにならなかった。キリスト者を証しするのは聖霊である。
私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。(ローマ8:16)
キリスト者はほめられることも、そしられることをも通して神を証しする者である。ほめられることによって神をあかしするのではない。
イエスさまは、ありもしないことで責められ、悪口雑言を言われ無実の罪で十字架刑に処せられた。
ほめことばはパウロと同じように私たちの自由を奪う。それに心を奪われると聖霊による言葉を真っ直ぐに語れなくなる。
サタンはほめて持ち上げ時を得てたたき落とす。彼の手に乗ってはならない。大切な事は、ほめられようとそしられようとその言葉の出所である。
ほめられたり、そしられたり、悪評を受けたり、好評を博したりすることによって、自分を神のしもべとして推薦しているのです。(Ⅱコリント6:8)
人の評価やほめ言葉ははげみになるし力にもなることがある。ただ、その言葉を即座に主への捧げものとし、自分の中に形を残さないようにするなら自由でいられる。
朝顔はこんなに元気に咲いてくれました。なぜか天高く・・