石ころ

尊ばれないイエス




彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。(イザヤ53:1~3)

イエスはますます知恵が進み、背たけも大きくなり、神と人とに愛された。(ルカ2:52)


 以前から、イエス様を現す表現にどうしてこれほど違いがあるのか・・と心に引っかかっていた。
眠れなかった昨夜、布団の中で寝返りを打ち続けていたとき、ふっとこのことに気付いた。

ルカのイエス様は子供であったのだ。まだ、みことばを語っておられなかったのだ。みことばを語らないイエス様は誰にでも愛された。

 でも、十字架を前にして語るイエス様の真実なことばに肉に激しく反抗し、生まれつきのものは主に逆らって止まなかったのだろう・・。
その時人の目に神の光輪は見えず、ゆがんだ目には欠点だけがクローズアップされて見えたのだ。

キリストのことばを受け入れるには、生まれつきのままでは受け入れることができず、砕かれないと受け入れることはできない。
しかし、砕かれることを喜ぶ人はいない。主の忍耐によって追い詰められ、行き詰まって砕かれた時に始めて「アーメン」と言えるのである。そうして、イエス様を能動的に愛するようになるのである。


 真実にみことばを語ることは生やさしいことではなく、それはイエス様と同じ道を歩むことになる。幼い頃のイエス様のように誰にでも愛される者でいたいものだけれど、大人であれば働くべきであり、働くために主はみことばのパンを与えてくださるのである。
パウロは言う。「働きたくない者は食べるな」(Ⅱテサロニケ3:10)

語らないなら、みことばは解き明かされることはなくなる。それが恐ろしいから語りたくないことも語るし、真実に語るためには覚悟を決めることにもなる。
主のみことばを解き明かされるときは口に甘く、蜜のようだからやみつきになるのだけれど、それが腹には苦いことは、後に思い知らされることになる。


私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。(Ⅱコリント6:1)

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