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石ころ

Aさんからお電話があり「また、お話が聞きたいから・・」ということで午後の約束をする。そんなときいつでも私の心はちょっとわくわくする。食事の後、学びのための準備をして、ちょっこっと部屋を整えて待つ。

しかし、最近はいつも振り出しに戻っている状態で、再び以前に話した内容の繰り返しばかり・・、今日もやはり同じ事だった。彼女が準備をして来るものは、宗教や信仰に関する議論ばかり・・。

「イエス・キリストを神の子と信じますか、十字架でイエスさまが『私の罪をあがなってくださった。』と信じて永遠のいのちを受けますか。と言うことよ、どうする?」と私が聞くと、「信じるようになるために、話したり、聖書を読むんじゃないの?」というが「イエス・キリストを信じたくて求めている。」という清いものは感じられず、
アテネの人々が宗教の議論は楽しむけれど、復活の話をパウロがすると去って行ってしまうという聖書箇所を思い浮かべてしまう。

彼女は現在すべてに満ち足りている。
初めて出会った頃はもっと懸命に生きていて、イエスさまのお話も真っ直ぐに届いていた。彼女は以前よりも今は豊かになって、生活の余裕も得て、すっかり自分に満足して賢くなってしまった。そして、私の愛していたものを失ってしまっているよう・・。

「あなたにとって、この事は何?趣味?」と聞かれた。私は、「仕事。だからこのことだけは私の好きな人にも、そうでない人でも、頼まれたら誰にでもお話しすることにしている。収入にならない仕事だけれど、かけがいのないほどの価値のある大事な仕事。」と答えた。

彼女は、「確かに・・あなたは昔から、何時電話をしても断ったことがなかったね。」と言って突然涙を流された。そうだった・・夕食時に、「会社の帰りに寄っても良いか」と電話がかかってきても、「休みなので午前中に来てほしい」といわれても、チャンスがあれば喜んでイエスさまを伝えてきたことなどを思い出した。

でも残念なのは、彼女の涙がイエスさまへの感謝の涙だったらどれほど嬉しいことだろう・・。その涙はどれほど清い涙だっただろう・・。

 
「神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。」(Ⅱコリント5:18~20)

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