今日は息子の通読箇所ヨハネ2章を読み、24,25を中心に話し合った。
「しかし、イエスは、ご自身を彼らにお任せにならなかった。なぜなら、イエスはすべての人を知っておられたからであり、また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。」
イエス様は人の評判によってご自身を伝えることはされない。宮殿ではなく大工の息子として来られた事からして当然だと思う。人は自分を支配する者であっても、搾取する者であっても、見栄えの良いものを好みきらびやかなものに惹かれてゆく。奇跡にはワッと集まるけれど、その心は風に揺れる葦のように頼りなくコロコロと変わる。
「彼は主の前に若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。」(イザヤ53:2)
イエス様はこのように来られた。それは、神様がこの様子を選ばれたということだと思う。
イエス様は罪人を受け入れて赦し、飢えた者にパンを与え、病人を癒してくださった。誰をも支配することも搾取することもなさらなかったのに、「十字架につけろ」と叫ぶ群衆がいた。イエス様は初めからそのことをご存じだっただろう。
そのような人間に忍耐強い愛をもっていてくださるイエス様は、「ニコデモを喜んでくださったのではないかなぁ・・。」と語り合う。分からないことは馬鹿げたことでも聞けばよい。そうするとイエス様は十字架を教え、神の愛を教えてくださる。
そのような主とのお交わりを通して、人目を避けてイエス様の所に来ていたニコデモが、やがて、イエス様のよみがえるお体を葬る役割をアリマタヤのヨセフと共に果たしたように、私たちのなすべき役割と必要な力が与えられ、みこころを行わせて頂けるのではないか・・・息子の顔がちょっとやわらかくなった。
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