懐かしい・・耳が聞こえない息子に、ステレオのアンプ部分に触れることで、リズムを感じることができるということで買ったものだった。
でも、私の方がすっかり気に入ってしまって毎日のように聞いていた。しんどい日々にずいぶん元気を与えてもらった。
心の重いことばかりだった。頑張っても頑張っても見当違いな同情の言葉ばかりが耳に入ってきた。出来ないことをあげつらわれて批判された。
長男に対しても、時間を割いてあげることができない負い目を持っていた。それはずっと胸が痛かったけれど、いつも心が飽和状態のようで疲れてしまって何も出来なかった。
しなければならないことは沢山あった。子供が学校に行っている間、私は小学校の教科書と格闘をしていた。これをどのように料理をして、食べやすく消化良く与えることが出来るのだろうかと・・。
障害児教育にめざましい結果を出して居られた先生の言葉「どんな子供にだって出来ないということはありません。人の5倍、10倍やれば良いのです。」その言葉が重くあった。
十二指腸潰瘍になったのは、聾学校の幼稚部に通い始めた頃だったけれど、それからずっと私はギスギスと痩せていて、人の言葉にピリピリとしていた。心に何の余裕もなかった。
そんなことが結局子供を追い詰めていた。そうして彼の「死ぬ」発言から、イエスさまへの信仰が開かれていったのだけれど、そんな人生の一時期に流れていた「アバ」
音楽cdを聞こえない息子に買ってきてくれと頼むなんて・・ありえないこと。でも、なぜが今はとても安心して頼んでいる。
出かけた息子からは、「今買ったから・・」と電話が入った。それは一方通行だけれど私にははっきりと聞き取れる。
この言葉は自然に出た言葉ではない。塾の先生と二人三脚のように苦闘して、叩き込んで得た言葉であり、発することが出来た言葉。それは事実。
でも、今私が安心をして聞こえない息子に頼むことが出来たのは、主にあって出来たこと。イエスさまが共に居て下さるという平安があるから出来ること。
弱さの中に完全に働いて下さるお方を知っているという安心。もう、決して不幸ではない。不幸になんかなれないという確信がある。
PCで聞くともっといい音がするとセットしてくれた息子。今、彼の買ってきてくれたケーキを食べながら聞いて居る。
主はすべてを逆転されるお方。泣いていた者を笑わせて下さるお方。
いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。(ルカ6:21)
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