ヨブ記を読んでいて、私もヨブの友人のような話し方をする者だと・・痛く反省させられた。彼らは黙って七日七夜土に座り、付き添うた上で言っているのだ。
何もしてあげていない者が、神のみこころも知らずに正義を語るのは恐いことだと・・。
人がどうして、きよくありえようか。女から生まれた者が、どうして、正しくありえようか。(ヨブ記15:14)
イエス様は女から生まれてくださった。今日はこの事実に衝撃を受けた。
もし、イエス様が木や石から生まれたのなら、旧約から現在に至るまで、人にとってイエス様を信じることが遙かに易しかったのではないかと思った。神にとっては石ころからアブラハムの子孫を起こすことさえできると書いてある。
神の御子が、罪の血筋にある人間の女から生まれた。その、人としての完全さの故に人は躓くのだろう。
しかし、女から生まれた者の罪を負うには、女から生まれた「人」でなければならないのだ。
神がたとえ十字架で死んでくださったとしても、人とはなんの関係もないのから・・。人の罪は、完全なる人によって完璧にあがなわれたのだ。
神の備える奇跡は、なんとありふれた中に隠されてあることだろう・・ 。どうして人がその日常の中に神のわざを見つけ出すことができるのだろう。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
御霊を消してはなりません。」(Ⅰテサロニケ5:16~19)
絶えず御霊によって主を見上げるとき、日常に小さな奇跡を見せてくださるから、みことばが生きていることを知る。
だから喜びは常にあり、祈りは心の内に絶えず、感謝が溢れてくるのである。
人生最大の奇跡は、人の子として来てくださったイエス・キリストを知ったことなのだけれど・・。
主人の抗がん剤投与の第一日は何と言うこともなかった。ちょっと拍子抜けするくらい・・。
物心が付いて現在に至るまで、白内障の手術以外に、家で寝込むという経験がない主人だから、こんなふうに昼間から三門忠治を聞いたり、歌ったり、眠ったり、起きたりしたことすべてが初の体験なのだ。そんな病気療養も今は痛みもなく、それなりにリラックスしてくれている。
今日は、車でスーパーまで連れて行ってくれたほど・・。
三度三度食事の量は少ないけれど、ちゃんと食卓で食べてきちんと薬を飲んでいる。
私はこの食事のことで知恵が与えられるように祈らなければならない。条件は難しいから・・。お腹が腫瘍で膨満感があり空かないから、ある程度好きで口に出来るもの、刺激が少なく、安全で、量が少なくてもバランスのよいもの・・。
昨夜は私も緊張がとれてぐっすり眠れた。
二人で祈ることができることこそ、なにより平安なことある。
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