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石ころ

火曜日の交わりのために

ヨハネ4章から(サマリヤの女) 

「サマリヤを通って行かなければならなかった。」
イエスさまは、ユダヤ人が軽蔑して避ける場所であるサマリヤを選んで、この女性に出会うために来られたのです。この女の人が井戸にやってきたのは真昼でした。暑いこの地方では誰も出歩かない時間です。彼女は人目を避けて暮らしていたのでしょう。人に会いたくなかったのだと思えます。

イエスさまは、女性と出会うとき「腰を掛けて居られた。」と書いてあります。この女性は人を避ける臆病さを持っていたのですが、この時のイエスさまは、女性を下から見上げて、「水を飲ませて下さい。」と話しかけられました。

女性は、このイエスさまに対しては、ちっともおびえを感じることはなかったでしょう。いや、この後のイエスさまとのやりとりを見ていたら、むしろとても元気な感じを受けます。

イエスさまはそれほどに、罪に傷ついた私たちの弱さに同情していてくださるお方だということなのでしょう。
イエスさまのこの細やかさ、繊細な心遣いに、福音を伝える者の姿勢を教えられます。

「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。
しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。
わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」


罪によって絶えず渇く私たちの心をご存じの主は、ご自身からあふれる永遠のいのちの水を与えようと導いてくださいます。
この水は私たちが造られたときに空けられた、空洞を満たす霊のよに思えます。人のどのような働きや名誉や物によっても埋めることのできない空洞に、主からのいのちが満たされるとき、私たちは初めて深い平安を得ます。また、それは永遠のいのちに至るものです。

イエスさまによって、女性の罪、隠された部分は光の下にさらけ出され、それらは処理されます。もっとも知られたくない恥ずかしい部分をイエスさまに知られることで、自分がありのままの姿で受け入れられたことを知るのです。そうしたときに初めて深い平安を得ます。

私たちは十字架の血によって、すべての罪の対価が支払われ、赦されている事を知って平安を得ます。また、罪から解放された自由を日々の暮らしの中で体験していきます。

人は、隠しているものによって人を恐れます。隠そうとして取り繕い自由を失っていきます。
イエスさまさまが人を用いるためには、罪の処理がきちんとされていることが必要です。なぜなら、サタンは私たちの罪を責めて脅し、自由を奪って働けなくするからです。

イエスさまがわざわざ立ち寄られた理由は、この女性の礼拝についての疑問に答えるためだと思います。
神殿を強盗の巣にしたとイエスさまが怒られた箇所がありましたが、礼拝の形式ではなく、真の神をどのように礼拝するのかという信仰の奥義を、イエスさまはこの女性との会話を通して、私たちに教えて下さったのだと思います。

「神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
イエスさまに出会って、イエスさまから流れでるいのちを受けた者は、この霊とまことを知ることができます。わからなければ求めることが出来ます。この女性に来られたように、イエスさまが聖霊を通して教えて下さるでしょう。

「あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、・・その教えは真理であって偽りではありません。・・また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。」(Ⅰヨハネ2:27)
私たちはひとり一人この方の導きによって、日々共に生きて絶えず礼拝しているのです。

負い目から解放された彼女は、この後、恐れていた人々に会うために町へ行ってイエスさまを伝えました。
それも、もっとも彼女の知られたくないこと、「私のしたこと」によって伝えています。彼女の恥ずかしいことはイエスさまによって清められ、伝道に用いられるものとなりました。

人は立派な者によって良い働きをすると思いますが、神にはどんなことでもでき、主によって新しく生まれた者は誰であっても、取り繕う必要もなくありのままで用いられるのです。このことは本当に神の恵みです。

町の人々は女性の言葉によってイエスさまを信じたのですが、それぞれイエスさまを自分自身で経験することによって、
「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」
と告白しています。

人を通して、その言葉によってイエスさまに出会うのですが、その後の生き方は、信仰によってイエスさまとの関係を深め、霊的な礼拝を建て上げて行くことです。
主がサマリヤの人々を救われたのは、父なる神の必要を満たすためです。私たちが救われたのも、霊とまことによて主を礼拝するためです。

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