お返事が大変遅くなってごめんなさい。それに、このようにブログに書いたことを許して下さい。
私の課題である赦しには二つの面があります。
未信者である方に対しては、その時々の内容に心を奪われることなく、姉妹が度々教えて下さったように、確かに、私自身が主に赦されているという事実を忘れないことがすべてです。私が一方的にみことばに従順であればそれで解決することであり、後は、正しく裁かれるお方にお任せすればよいことでした。主は生きて居られるのですから。
もちろん、それで完全に赦して笑うことができるのかと問われれば、出来るかも知れないし、出来ないかも知れませんが・・ぐずぐずと悩むことはなくなります。少なくとも問題の中心ははっきりしました。
「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」(ヘブル12:4)
自分の正しさを主張する肉に対して、勝利する必要があるのですが・・。私がみことばに従順することを願うとき、主が助けてくださるでしょう。
みことばを選び取るとき、主がそれを完成させて下さることは知っています。私の無力さを主はよくご存じですから。
また、信者への赦しの問題は、キリスト者となって以来つきまとう問題でした。それは自分自身に、また、兄弟姉妹の中に不信仰を見たり聞いたりするとき、絶望せずにはいられませんでした。それは怒りのようであり、悲しみのようであり、苛立たしくも苦しくもありました。
年頭からソロモンを通して、主は赦しについて導いてくださいました。
ソロモンは自分で何をしたからと言うわけではなく、ダビデに対する神様の約束によって、大きな祝福を受けましたが彼は最後に裏切りました。
主は二度も彼に現れて、直接忠告をあたえられても、聞き従わず偶像礼拝を行って神を侮りました。
「私は自分の心にこう語って言った。「今や、私は、私より先にエルサレムにいただれよりも知恵を増し加えた。私の心は多くの知恵と知識を得た。」
私は、一心に知恵と知識を、狂気と愚かさを知ろうとした。それもまた風を追うようなものであることを知った。
実に、知恵が多くなれば悩みも多くなり、知識を増す者は悲しみを増す。
私は心の中で言った。「さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。」しかし、これもまた、なんとむなしいことか。」(伝道1:16~2:1)
伝道者の書を読んでいて、ソロモンのまるで肉にのたうっているような悩みや、虚無感を感じます。それがこの世での最高の祝福を受けた人の姿でした。
私は裏切り者ソロモンのことばにとてもがっかりしていたのですが、
「知恵ある者のことばは突き棒のようなもの、編集されたものはよく打ちつけられた釘のようなものである。これらはひとりの羊飼いによって与えられた。」(伝道12:11)
このみことばを読んだとき、主が彼に赦しの中でことばを与えられ、主を語ることを赦されたのだと思いました。
ソロモンが事実どのようであったとしても、決して動じることのない主のご計画の偉大さのゆえに、みことばの価値は人の態度によって変わることなどないと知ったのです。
神はそれぞれの人に直接語ることはなさらず・・この方が遙かに簡単で手っ取り早いと思うのですが・・また、直接人を操ることもなさらず、なぜか人を介して語り伝えられることを選ばれました。聖霊の働きという導きはあるのですが、回りくどい方法で、危険な方法です。
ペテロの様に「神のキリスト」と告白した直後に、イエスをいさめるという間違った言葉を語るのが人です。
人の中には、この世では決して満たされないソロモンの悲しさがあり、迷いや、絶望があり、たとえ主を宿していても孤独であって・・、それでも主はそんな人にみことばを託してくださったということに、私は今なぜか感動しています。
人は霊と肉を抱き、時々刻々と揺れつつ、そんな中でいろいろなものを吐き出しながら、主から与えられたことばを語り伝えて行く者とされました。それが主の方法であり、それは赦しの中にあることを改めて知って、私は平安を得ました。
人を裁くことは苦しいことです。最後には自分に返って来て自分の霊を傷つけるからです。それが罪だから苦しいのですね。みこころではないから苦しいのですね。
主の祈り「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」この祈りについて、「・・ごとく」という言葉に私は戸惑っていました。
この自分の惨めで不完全な許しに対して、イエス・キリストの十字架による購いという完璧な赦しが与えられているという事実に言葉を失い、この祈りに恐れを感じたのです。
でもそれは、神様はもとから私が塵に過ぎないことをご存じですから、私の分を持ってイエスさまの御足跡を歩むことなのですね。
私の中に、神様が与えて下さったものに見合うものなど、そもそもあるわけがないのですから、そのようなものをご真実な主が求められるわけがないのです。
そこで、姉妹が教えて下さったように「互いに愛し合いなさい」へと繋がってゆくのですね。不完全な人と人を繋ぐものは神の愛。キリストの完全な愛、その大きさの中で平安を分かち合うように勧められているのですね。
年頭にこのことを主が導いて下さったのですから、今年の歩みはこの主にお委ねして行きます。
私にはどうする力もないのですが、神にはどんなことでもできるのですから!
「すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように」(エペソ3:18~19)
「互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。
そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。
キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。」(コロサイ3:13~15)
今年もどうぞよろしくお願い致します。 ムベ
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