主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。(1~2)
神の命令は常に人類を、家族を祝福するためのものである。たとえ「ひとり子を捧げよ」と命じるものであっても・・。
今、私たちは聖書からそのことを学び、聖霊の力によって従うことができる。
わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」(3)
アブラハムの場合は民族的な祝福を現したが、今もキリストに従順する者にたまわる祝福である。
まことに、あなたがたに言います。あなたがたがキリストに属する者だということで、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる人は、決して報いを失うことがありません。(マルコ9:41)
これは、神の恵みが多くの人々に及ぶための御約束である。神は気前の良いお方であり、そのことを通して世に神の祝福を知らしめるものである。
アブラムは、主が告げられたとおりに出て行った。ロトも彼と一緒であった。ハランを出たとき、アブラムは七十五歳であった。
アブラムは、妻のサライと甥のロト、また自分たちが蓄えたすべての財産と、ハランで得た人たちを伴って、カナンの地に向かって出発した。こうして彼らはカナンの地に入った。(4~5)
ノアの子セムの家系から出たアブラムは、主の命令に従って生まれ育った地を後にした。
すべては主の導きと備えによる旅であった。それは、聴く者に神の救いを告げ知らせるための旅となる。
キリスト者の国籍は天にある。その人生は天を目指す片道の旅であり、その行程は神が初めから終わりまでご存じである。神は良き方ゆえに、これほど気楽でワクワクする旅は無い。旅の保険は永遠のいのちであるから。
旅の費用はすべて主が支払ってくださる。主に在る者の靴はすり減らず、志をくじくものから守って衣も破れない。また、マナの如く必要のすべてを備えて、世の荒野に在っても飢え渇きから守られる。
あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを、あなたの耳は聞く。(イザヤ30:21)
日毎に聴くみことの中で最善を示し、世に迷うことのない道を開いてくださる。失敗をしない人はおらず、そこにも脱出の道を備えていてくださる。
アブラムはなおも進んで、ネゲブの方へと旅を続けた。
その地に飢饉が起こったので、アブラムは、エジプトにしばらく滞在するために下って行った。その地の飢饉が激しかったからである。(9~10)
アブラムは飢饉を恐れて、豊かと見えるエジプトに身を避けた。彼はより頼むべきみことばを持っていなかったので平安は無く、身を守るためのやりくりをしなければならなかった。
彼がエジプトに近づいて、その地に入って行こうとしたとき、妻のサライに言った。「聞いてほしい。私には、あなたが見目麗しい女だということがよく分かっている。
エジプト人があなたを見るようになると、『この女は彼の妻だ』と言って、私を殺し、あなたを生かしておくだろう。
私の妹だと言ってほしい。そうすれば、あなたのゆえに事がうまく運び、あなたのおかげで私は生き延びられるだろう。」(11~13)
人がどれほどの信仰を持っていても、その信仰を成就してくださるのは主である。人には完璧な信仰は無い。
神により頼む者の守りは神の約束のことばである。目の前で何が起ころうとも、どんな噂を聞こうとも、予め備えられたみことばを持っている者は、どんなときにも主に安息することできる。
サタンや悪霊の攻撃目標は、人をみことばから切り離すことにある。そうすれどのような信仰者をも、その不安によって鼻ずら引き回し思いのままにすることができるからである。
みことばは剣である。主に身を避ける者の唯一の武器であり、完全な勝利をもたらせるたった一つの武器である。それはどんなに弱い者にも勝利が約束されている神の力である。
ファラオの高官たちが彼女を見て、ファラオに彼女を薦めたので、サライはファラオの宮廷に召し入れられた。
アブラムにとって、物事は彼女のゆえにうまく運んだ。それで彼は、羊の群れ、牛の群れ、ろば、それに男奴隷と女奴隷、雌ろば、らくだを所有するようになった。(15~16)
アブラムは王を恐れ自分の命を主に委ねず、妻サライを妹と偽った。サライは宮廷に召し入れられた。それによって、アブラムは多くの財産を得た。
これらの財産がアブラムをどのように助けたかは聖書に書かれていない。必要以上の富は手足纏いではないのか・・、そもそも神の完全な備えがあるのだから必要とは思えない。
しかし、主はアブラムの妻サライのことで、ファラオとその宮廷を大きなわざわいで打たれた。(17)
主はサライを救い出してアブラムに返してくださったが、このことは聖書の中ではアブラムの恥である。
主に在る者が恥をかくのはみことばを待たぬゆえである。主に祈り求めるべきことを、自分の判断によって解決する時に恥を晒す。
神が計画をもって選ばれた者には、神が計画を成し遂げさせてくださる。神の計画を成すには人は無力だからである。
あなたのみことばは 私の足のともしび
私の道の光です。(詩篇119:105)
先立つみことばがなければ、世の闇で平安を持って前進することは不可能である。
私たちが日々主に導きを求めみことばを持つなら、大胆に前進することができる。神はご真実だからである。
主よ あなたの道を私に教えてください。
私を待ち伏せている者どもがいますから
私を平らな道に導いてください。
待ち望め 主を。
雄々しくあれ、心を強くせよ。
待ち望め 主を。 (詩篇27:11.14)