あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。(エペソ2:1~2)
「あなたがたは・・罪の中に死んでいた」という言葉に、神の目には人はこの地上に生まれるなり「死んでいる」と見えるということである。確かに確実にその日から死に向かうからである。それは神の目にはあまりにも短い時なのだろう。
私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。(エペソ2:3)
「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」とは、生まれた時から、神の怒りを受ける者であるということ・・。
それはアダムの血筋にある罪であり、神の聖さは罪を受け入れることができないからである。聖書の知識によって理解していても、たじろぐ言葉であった。
人の罪のもたらすものは、無垢の幼子に在っても成長して行くものであって、サタンの支配する世では、不従順の霊の影響の中で、死に向かって行くものである。
あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、──あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです──
キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。(エペソ2:4~6)
神はすべての人が滅びゆく罪から、愛するひとり子を遣わして、人の罪をきよめるために、御子にすべての罪を負わせ十字架で、完全に人類の罪を処理して救い出そうとしてくださった。
そうして私たちを御許に迎え入れ、永遠に主と共に生きる者としてくださった。
「天の所にすわらせてくださいました。」とあるのは、時間を超越した約束でありすでに成っている。このことは神に恵みによることである。
私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。(エペソ2:10)
神のかたちに創造されたにも関わらず、罪の故にエデンを追われた者を、キリストに在って御許に集め、死ぬべきいのちを回復してくださった神は、この世でもひとり一人に聖霊を遣わし、主と共に生きるように導き守ってくださっている。
人は善悪の知識の木の実を食べて以来、良い行いさえも的外れであり、何が良いことで神に喜ばれることかわからないのである。
聖霊はみことばを解き明かして、みこころに導いてくださる。それも「あらかじめ備え」とあるのは、良い行いのための必要をも、準備してくださることである。
この良い行いとは、神に喜ばれる永遠に残るものである。
信仰により、神から一方的に与えられたものは、傷も染みもない神の子どもという立場である。
キリストの十字架によって、私たちはすべての刑を全うしており、キリストと共に神によみがえらされて、聖霊の宮とされたのである。
このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。(エペソ2:22)
本来、神に造られた人の住むべき場所は、エデンから追放されたこの地上ではない。時に限りある地ではなく、永遠の神の御住まいである天なのである。やがて迎えられる新天新地、そう神の御住まいに在って、その交わりの中こそが居場所である。
神は人を死ぬ者として造られたのではなく、共に永遠に生きるものとして造られた。
神の愛は、アダムの背きによって失われたのではなく、御子をたまわるほどの深い愛となり、人は創造の初めにまさる憐れみと恵みをたまわったのである。
人は良いことをするロボットのようではなく、それぞれの自由な意志による信仰によって、神を愛する者となり、感謝と、信頼を深め、御名をあがめる交わりの中で、神の家族キリストの花嫁とされたのである。