ヨハネは「イエスの愛された弟子」と自身を語った。このことはイエスさまのお喜びであったと思う。
彼が長く生きて、黙示録まで伝え使命を全うした幸いの源であると思う。不完全な者が、完全な愛に安息することができるのは、信頼しているからである。
御子をたまわるほどに愛されている神の愛に、鈍感であったり躊躇することは、どれほどの罪であろう・・。
神に選ばれない者とは、神の愛に無関心で、その愛を知ろうともしない者のことであり、神の愛に応答しないゆえに滅びるのである。
弟子は皆イエスさまから愛されていた。なぜなら神は愛だからであり、愛する存在だからである。その方が、リアルに寝食を共にして居てくださったのである。どれほどの愛に満たされていたことだろう、イエスさまの居られる所には愛が充ち満ちていた。
でも、イエスの愛を味わっていた弟子は、ヨハネだけであったのだ。なぜ全員がその愛に浸って、愛されている者と名乗れなかったのだろう・・。それは、ひとりの御子をたまわった、神さまを悲しませることでもある。
イエスさまは、そのような弟子の愛の鈍感を忍耐されていただろう。だから、愛に気づいたヨハネは、それだけでもイエスさまを喜ばせる存在だったろう。
今私たちはキリストの十字架を知っている。その愛を日々経験している。なのに「私は神に如何に愛されているか」と、「キリストに愛されている私」と、喜びに溢れて名乗れないのはなぜだろう。
キリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。(エペソ3:17~19)