石ころ

エステル記より



 エステル記を読んで、ユダヤ人に準備されていた成長するべき時ということに気付かされた。
モルデガイがハマンに頭を下げていれば、民族に危機が及ぶことはなかったのかな・・。そのようにも思ったけれど・・。

 人を神のように崇めないことは正しいことである。
それはみこころに叶っていた。そこに、神様の大きなわざの現れがあったのだから・・。
信仰生活は10年一日のごとくではなく、常に新鮮でなければ堕落するもの。危機にあって、ユダヤ人は断食をして神に祈り、熱心に神と向き合った。きっとそれは、それまでとはまったく違った信仰を要求されたことだろう。
 
 モルデガイは、神様が信仰を深みに導くために置かれた人。
モルデガイもエステルもその役割を忠実に果たした。彼女たちに必要なものは信仰と従順と勇気だった。
しかし、それを彼らの前に備えてくださったのは神様だと思う・・、彼らはそれを受け取って行動したのだ。

わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。(マタイ10:34)

 神様の大盤振る舞いに与るために。
古びた衣は剥ぎ取られ、新しくされなければならない。それは文字面のことではなくとっても実践的であり、現実的なことで、行いとなって現れると思う。

「私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」エステルの言葉が信仰者の生き方のすべて現している。
いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです。(マタイ16:25)

 一粒の麦として・・
それは多くのユダヤ人の信仰を新しくし、主に実を結ぶことになった。喜びが訪れ御名があがめられ恐れられたのだった。
エステルは、導かれるままに王室に入っていった。どの時代であれ、まずは主が置かれる所に居なければどうしようもない。

その日のために、エステルは完璧に備えられた。これはエステルが自分磨きをしたのではなく、従順することによって磨き上げられていったのである。
救い主キリストを乗せるロバの子は、繋がれて時を待っていなければならない。それは人の判断の入る所ではなく聖霊が働かれることである。

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