イエスさまが十字架にかかって天に帰られた後、弟子たちは激しく迫害されました。その迫害者の中でもパウロ(サウロ)という人は、熱心にクリスチャンを追い回して捕まえ、牢に放り込んでいました。
彼は厚い信仰を持っていましたが、イエスさまが神の子であることを知らなかったのです。
彼はイエスさまにお出会いしてはじめて、自分のしていることが神様に敵対していることを知りました。
彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。
彼が、「主よ。あなたはどなたですか。」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。(使徒9:4)
それまで彼は、良いことをしていると思っていたのです。
この時彼は、自分に起こったことを通して、イエスさまを神と認めたのです。
彼はイエスさまに出会ってからは、何度も殺されるようなめに会いながらも、生涯イエスさまを広くイスラエル人以外にも宣べ伝えて行く重要な働きをしました。
イエスさまは弟子たちにこれから起こることを話されますが、弟子たちはイエスさまの話される内容を受け止めかねています。
そんな中で、ご自分が共に居られるよりももっと良いことがあるのだと、弟子たちに、決して孤児にはしないことを話されたのです。
私たちと同じ肉体を持って来て下さったイエスさまは、いつでもすべての人と一緒に居ることはできません。
でもやがて来られる聖霊は、ひとり一人に来てくださり、イエスさまを信じる者と共に歩んで下さるお方です。
聖霊はイエスさまが天に帰られた後に来てくださり、三位一体の神、私たちの助け主です。イエスさまのお言葉を私たちの必要なときに解き明かし、思い出させてくださいます。絶えず、私たちにイエスさまを指し示してくださるのです。
その方だけが世にあやまちを認めさせることができ、イエス・キリストを示すことができるのです。
私たちの言葉でどんなに上手く語っても、人に罪を認めさせることはできません。聖霊によらなければ、造り主に逆らっていることは人にはわからないのです。
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。
罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
また、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。(ヨハネ16:8~11)
罪とは、そもそもイエス・キリストを信じないことだと書かれています。
人は罪によって死ぬのですが、イエスさまを信じることで、十字架のあがないがその人のものとなり永遠のいのちを頂く事ができます。けれども、イエスさまのあがないを信じない者の罪はそのまま残り死が罪を証明するのです。
義についてとは、神の正義は人の罪を見て見ぬ振りをすることができません。神様にとっては罪は大小ではありません。どんな罪でも罪は汚れであり、聖なる神様には受け入れることが出来ないのです。
アダムが神様に背いて以来、その罪は全人類を罪の血筋にある者としました。
神様に対して人は自分の命をもってしても、誰も罪をあがなうことができません。人はみな罪人であり、罪の中に生まれ、日々思いの中ででも、罪を犯しつつ生きているのが人だからです。その死は罪の報いに過ぎないのです。
聖書に「義人は居ない。ひとりもいない。」と書かれています。
そこで愛の神様は、ご自分のひとり子、罪の血筋ではないひとりの人を、救い主として世に贈って下さったのです。罪のない人だけが罪を身代わりに負うことができるからです。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)
神様は、ひとり子イエスを人の世に送り、十字架の恥と痛みにさらして、人類の罪を十字架で処罰してくださいました。
そのようにして罪に死ぬべき人の運命、また、生きる間も良心に責められる苦しみから、私たちを解放してくださいました。
イエスさまがすべてのことを終えて、御父の元に帰られたことで神様の義は成立し、今私たちイエスさまを信じる者は、永遠のいのちを与えられ、父なる神様に子として受け入れられました。
「アバ父」と神様を呼び、なんでも祈り求めてるようにとイエスさまは命じています。
イエスさまが御父に従順してくださったことにより、一方的に頂いた永遠のいのちであり、いつも祈り、何でも求めることが出来ると、神様とイエスさまを信じる私たちの間に親子関係が成立したのです。
さばきについてとは、この世を支配していたサタンがイエス・キリストによって、裁かれたことです。
サタンは今もこの世を支配していますが、彼は滅びの執行を猶予されているだけなのです。すでに彼の永遠の滅びの刑は決定しています。だから、私たちは神様を愛し、神様を恐れますが、サタンを恐れることはありません。
世は自分たちの義を信じています。しかし、聖霊はそのあやまりを教えます。人は人間の理解の中で、自己中心な正義を持っています。殺し合う戦争でさえも国々は互いに正義を振りかざします。
「私は清廉潔白です。なんの悪い事もしていません。」と言っても、それは神に通用しません。イエスさまを信じていなければ彼はその罪によって滅びるのです。
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