石ころ

ごく小さなこと (ルカ19章)




イエス様がエルサレムに入ると同時に神の国が来る。人々はそう思っていたのでこのムナの話しをされたとある。
しもべ10人に10ムナが与えられた。ここは平等に1ムナずつ。
王位を受けるために出掛けた人とは十字架で死んで葬られ、天に帰られたイエス様であり王として帰ってこられた再臨の主のこと。

信仰者に同じように与えられたものは、キリストの救いであり神の家族の関係である。それが私たちの間で実を結び神の国に入るための備を期待されている。
10ムナ稼いだ人は「ごく小さな事に忠実であった」と言われた。1ムナの価値を知っている者はごく小さなことに忠実になるのだろう。

何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。(マタイ6:33)

暮らしの中で、主を礼拝しつつみことばに親しみ、永遠の望みによって生き生きと再臨の主を待ち望む。
それはありふれた生活だけれど、10ムナの稼ぎとは生きたみことばによって、主がどのような方であるかを大胆に経験し関係を深めて行くことである。
「恐れるな」と聖書には繰り返し書かれている。愛には恐れがないからである。

あなたは預けないものも取り立て、蒔かないものも刈り取られる厳しい方なので、恐ろしかったのです。(ルカ19:21

ムナは用いなければ取り上げられる。みことばを日々に用いず、探さず、求めないから安息できないでいる。なぜそれが出来なかったのか。
彼が主を知らないからである。関係を築こうとしないからである。

真に主を恐れることはみことばに忠実であること、聖霊をないがしろにしないことである。
敬遠は神も聖霊も知らない者のすること。私たちの御父は「アバ、父」であり、イエス様は「花婿」、私たちは家族なのである。
恐れさせてその関係を裂くものは何なのか・・。

「主の祈り」としてマニュアル化してある文章には、「御名を崇めさせたまえ」とある。しかし、聖書にはそんなことばは無い。家族の間で名を呼ぶことに許可を得ることなどありえない。「アバ父」と呼べばよいのである。そう書いてあるから。

忠実とは何よりもみことばに対して渇き、求めて大切にすることである。
キリストが血潮を流して回復してくださった神の家族の関係に、恐れをもって割り込み、親しい関係を他人行儀な冷たいものにするのは何なのか。
ごく小さなことに忠実であれと主は言われる。

ただし、あなたがたは、しっかりとした土台の上に堅く立って、すでに聞いた福音の望みからはずれることなく、信仰に踏みとどまらなければなりません。(コロサイ1:23)


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