石ころ

正しさ

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 イエスさまが、安息日にあえて癒しを行われたのはなぜだろう・・。ルカ6章で行われた手のなえた人への癒しは、緊急性のあるものではないと思うけれど・・。

イエスは人々に言われた。「あなたがたに聞きますが、安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも失うことなのか、どうですか。」(ルカ6:9)

人々はイエスさまお言葉を聞いて「分別を失った」と書かれている。イエスさまのおことばがあまりにも正しかったので、彼らは分別を無くしてしまったのだろう。

 安息日を守るという律法、その法に則り正しく神に仕えていると思っていた彼らは、この言葉により、自分たちの正しさのよりどころを失ってしまった。そこで分別なくし、内にあった殺すもの・・憎しみがあふれ出した。

安息日を守ることは義なる神さまの命令であるが、それを人がみこころのままに行うことはできないのである。イエスさまは出来ないと言うことに気付かせようとされたのであるが・・。

 人は自分の信じている所を攻撃されると分別をなくす者である。だから、イエスさまを伝えるときに彼らの信じている所を攻撃したり、説得しようとしても成功しない。分別をなくした者に生きる決心はできないのだから・・。

しかし、人を知り尽くしておられるイエスさまが、このようにな方法で攻撃されたのは、後日のための備え、私たちのためでもあるのだろう。
私たちは知らなければならない。人の義が何処から来ているかと言うことを・・。

 人の正しさは善悪知識の木の実を食べた血筋にある者によって、その自己中心によって維持されているのであるということを・・。私たちには、神の義により正しく判断することなどは出来ないのである。

それは仕方がないこと。血筋により人は殺すことは出来るが、生かすことはできないのだから。生かすのはいのちの木であって、善悪知識の木の実は殺すものであるから・・。人を生かすことが出来るのは神のみである。

人が自分の正しさを振りかざすとき、イエスさまからは遠くなり、救い主を殺す者ともなりうる。それは法ではなく自我に過ぎないのだから・・。それは殺すが、イエスは生かす方である。

善悪知識の木の実を食べた人類は、正しさによって神に仕えることは出来ないのである。ただ、イエスさまの十字架のあがないによってのみ、神に仕えることができるのである。
人の判断を否みイエスのことばによって選び取る人、ただ、みことばにアーメンという者のみが仕えることができるのである。


すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(ローマ3:22~24)

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