石ころ

人の子は安息日の主



 すべての律法の上にあられるイエスさま。人は主の主権に服するか、それとも逆らうのか、そのどちらかなのだ。
イエスさまがお弟子を選ばれた。

彼らお弟子たちの関係が、常に良かったわけではないことが聖書からわかる。
出世を願い出たヤコブとヨハネに対して、出し抜こうとしたと腹を立てたり、誰が一番偉いかと論じあったり・・それは結構この世的であった。


「大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。」(ローマ12:5)


各器官が、目、耳、手、足・・とすれば、目は「あなたがたは、何も見えないではないか・・」と思うだろうし、耳は「あなたがたには、何も聞こえてないではないか・・」と思うだろう。

各器官が、互いに完全に理解することは無理なのである。目には耳の働きがわからず、目にわかることは見ることだけなのだから・・。目ばかりが集まると互いの理解は容易であるし、誰が一番であるかを知ることもできるだろう・・。
しかし、それでは主とは無関係な人の好き勝手な集まりに過ぎない。


「主の前には、何も持たずに出てはならない。
あなたの神、主が賜わった祝福に応じて、それぞれ自分のささげ物を持って出なければならない。」(申命記16:16~17)


 キリスト者が主を礼拝するときに捧げるべきもの、主が望まれる捧げものとはなにだろう・・、礼拝に必要な捧げものとはなにだろう・・。

主に賜った最大の祝福とは十字架である。御子の犠牲による十字架の救い。故に人の出来ることは、イエスさまと共に十字架に死んだ魂を持って行くことであろう。
時に、生き残りの肉の反抗を経験するけれど、主にあって乗り越えることができる・・。みこころならば主がそのことをなさせてくださる。

その時、各器官はキリストによって新しく生かされ、互いの働きを知ることができる。それは互いの理解ではなく主への従順によるのである。
すべての器官が自己を忘れて、キリストなるかしらを求める信仰によって始めて、キリストのからだは完成される。
そのからだは、頭なるキリストによって成長し働くようになる。

「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」(エペソ4:16)

 お弟子達は聖霊に満たされた後、各器官としての必要を満たし合い、キリストの愛によって結ばれ、試練の中で教会を建てあげて行った。彼らの見ていたものはキリストであり自分自身ではなかったのだろう。彼らは安息日の主に完全に服した。

「教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。」(エペソ1:23)

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