「一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて、ともしびとたいまつと武器を持って、そこに来た。」(18:3)
ユダは、かってイエスさまと集った場所にやってきました。しかし、その時彼はイエスさまという光を失って、ともしびとたいまつを持って来ました。でもそれらはいくらあってもすぐに消えてしまうものです。
ユダはイエスさまといういのちの光りを失ったことに気づいていません。
イエスさまを離れたときに私たちは永遠の光を失います。イエスさまは私たちの光なのです。イエスさまと共に居るときは、私たちは永遠を見通すほどの光の中にいます。そこは明るくて何の恐怖もないのです。
イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)
また、武器を持って来ました。本当にユダは武器をもってイエスさまを捕らえようとしたのでしょうか・・それなら彼がイエスさまと一緒に居た間、いったいイエスさまの何を見ていたのでしょうか。彼はイエスさまをどなたとおもっていたのでしょうか。
イエスさまと共に居ても、イエスさまご自身を見ることなく、またみことばに賭けて生きることもなく、自分自身の成ること、自身の何かが満たされることだけに気持ちがあったとしたら、その人は何十年たってもイエスさまとを知ることはないでしょう。そのような人は自分の思い通りに行かなくなったとき、ユダのように裏切るのです。
「剣を取るものは剣で滅ぶ」とイエスさまは言われました。剣は人を殺すための道具です。しかし、みことばの剣を選びとることによって、人は生かされるのです。
イエスさまの権威によってユダ達は倒されました。イエスさまに倒されたとき私たちは自力で起き上がるべきではないと思います。イエスさまに服するべきです。しかし、ユダたちの強情は、神の権威を恐れることはありませんでした。
パウロというお弟子は、クリスチャンを迫害してイエスさまに倒されました。そのとき彼はイエスさまに向きを変えて従順しました。そうして彼は異邦人伝道という大きな働きをなし、世界にイエス・キリストを紹介しました。
私たちがイエスさまに倒されることは良いことです。そのとき間違いを悟り、向きを変えるなら救われるからです。人は過ちを犯す者だからです。
イエスさまが十字架にかかることは、神のご計画によるのです。戦って十字架を避けようとするなら、イエスさまには天の軍勢を呼ぶ権威をお持ちでした。
「父がわたしにくださったさかづきをどうして飲まずにおられよう」と、私たちの救いの為の十字架を受けてくださたのです。
「それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。」(マタイ26:53)
捕らえられたイエスさまを打った役人に「なぜ正しい者を打つのか。」とこの裁判の誤りを指摘されます。イエスさまは公然と明るみの中で話されました。誰からも隠れる必要もなく、なんの隠された罪も無いからです。
ただ、公然と明らかにされる神の御子イエスの存在を否む人々が、イエスさまを消し去ろうと計らったことなのです。しかし、御子イエスが十字架で死刑になることが、神のご計画でもあったのです。
「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。
そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」(マタイ20:18~19)
十字架がなければ私たちは神様とはなんの関わりもない者です。私たちは自分の罪によって滅びるだけの者だったのです。
イエスさまを神の御子と信じた私たちは、イエスさまと共に十字架で死刑になり、イエスさまと共によみがえらされのです。
私たちはすべての罪の処罰を終えて、新しくされた者です。このように十字架を通り、罪のない者とされたことで、神を「アバ、父」と呼ぶことを赦されたのです。
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(Ⅱコリント5:17)
イエスさまは「わたしの国はこの世のものではありません。」とおっしゃいました。イエスさまを信じる私たちの国籍も今は天にあります。この世に生きていてもこの世の者ではないのです。ですからイエスさまに出会った今は、自分を守るために人と争う必要はないと思っています。たとえ信仰について悪口を言われたとしても、神の正しい裁きに委ねます。
「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」18:37
イエスさまはピラトにこのように話されました。「真理に属する者はみな私の声に聞き従います」と言われています。教会に通っていても、献金をしていても、聞き従わない者は、イエスさまに属さないと言われているのです。
ピラトは真理について質問したところでイエスさまの返事を待たずに、自分の良い考えを持って群衆に向かいました。祭りの習わしによってイエスさまを釈放するという案でしたが、群衆は強盗バラバの釈放を要求しました。
私たちが自分の良い考えでイエスさまをあかしする時は必ず失敗します。イエスさまを離れては、私たちには何も出来ないからです。
ピラトはイエスさまに、真理について聴く最後の機会を失いました。イエスさまに従うには、みことばを待つことが非常に重要です。
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定期的に名を忘れるワッフル旦那です。
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