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石ころ

火曜日のために (何をしてほしいのか)



イエスさまはエルサレムに向かって進まれ、やがて十字架につけられることを弟子たちに話されました。
弟子たちは恐れたとあります。事情はよく理解出来ていなかったのですが、時が差し迫っていることは感じていたのだと思います。

そんなときに、ヤコブとヨハネはイエスさまに頼み事をしました。「栄光の座で、あなたの右と左に置いて下さい。」というものでした。つまり将来の出世の約束をとりつけにきたのです。

でも、それはとんでもないことを願って居たのです。
イエスさまのこれから向かわれる所、その栄光の座とは十字架のことです。処刑されて死ぬことにより、人の罪を身代わりに負って神様から与えられた役割を全うなさるのです。

事実イエスさまの十字架には、左右で磔(はりつけ)になった強盗がいました。
また彼らは、イエスとともにふたりの強盗を、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけた。(マルコ15:27)
本当に人は時々とんでもないことを願う者です。強盗という罪人として、最も残酷な刑罰である十字架で死ぬということを彼らは願っていたのです。

人は皆神様から見るとき罪人です。「義人はいない。一人も居ない。」(ローマ3:10)と書かれています。
ですから放っておいても、皆自分の罪の故に死ぬ者です。
その罪を、イエスさまは身代わりに負って、永遠の滅びから救い出してくださる、それがキリストの十字架です。

ヨハネやヤコブの行為を他の弟子たちは非難しました。
イエスさまは、ご自分がどのような生き方をして、どのような死に方をするのか話しキリスト者の生き方を話されます。
神である方が人となってくださり、人に仕えられるのではなく仕える者として生き、人の罪の身代わりとしてご自身のいのちまで与えて、十字架に死んでくださるのです。私たちはそのイエスさまに従って生きる者であることを教えてくださいました。


ひとりの盲人、物乞いのバルテマイがイエスさまに助けを求めて叫びます。誰が叱っても、止めても叫び続けます。
「ダビデの子のイエスさま。私を憐れんで下さい。」

その叫びは、実は私たちの叫びなのです。
イエスさまに似たものとして、自分を捨てて人に仕えるためには、私たちはどれほど自分自身と戦って、「イエスさま。助けて下さい!!」と叫ばなければならないことでしょう。

でも、イエスさまはその叫びにいつでも応えてくださいます。日々何度も叫んで良いのです。
イエスさまは何を求めるべきかさえ知らない弟子たちを、神の栄光を現して生きる者とし、神の栄光を現して死ぬ者と成長させてくださいました。

事実彼らは、「良くやった。良い忠実なしもべだ。」といわれる信仰を全うしたのです。成長させてくださったのはイエスさまです。
「わたしに何をしてほしいのか」と聞かれたら、ありのままに助けを乞えばよいのです。
イエスさまはご真実なお方ですから、私たちがイエスさまを愛しているなら、たとえトンチンカンなことを願ったとしてもちゃんと教え導いてくださいます。


平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。
あなたがたを召された方は真実ですから、きっとそのことをしてくださいます。(Ⅰテサロニケ5:23~24)

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