彼らの娘たちをあなたの息子たちの妻とするなら、その娘たちは自分たちの神々と淫行を行い、あなたの息子たちに自分たちの神々と淫行を行わせるようになる。(16)
イスラエルの民は神の選びの民である。その地の娘と結婚をして彼らの習わしである偶像を持ち込み、それらを拝むようになることは、神の民としての純潔を損なうことである。
ユダヤ人はローマによって全世界に散らされ、長い歴史の後に約束のイスラエルに帰還して国家を確立した。その歴史の中で、イスラエルが神の民であり続けたのは、世界の何処にいても神の戒めによる民族の純潔を守ったからである。すべては終末に向けての、イスラエルの役割のため準備されていることであった。
モーセはそこに四十日四十夜、主とともにいた。彼はパンも食べず、水も飲まなかった。そして、石の板に契約のことば、十のことばを書き記した。(28)
荒野の四十日四十夜の断食をイエスも経験された。イエスが悪魔の誘惑を受けられ、人の飢えを経験してくださったのである。
しかし、モーセは渇くことも飢えることも無く、輝きを増していたのである。それは彼が、力の源である神の元に居たからである。
今の私たちも同じ経験をする。悪魔といる時は、すべてに飢え渇き心貧しく消耗するばかりの戦いがあり、誘惑も絶え間なく襲うが、神に在る時は飢えることも渇くこともなく、すべての必要が満たされて、霊も魂も体も神から流れてくる良きものに満ち足りるのある。
それから、モーセはシナイ山から下りて来た。モーセが山を下りて来たとき、その手に二枚のさとしの板を持っていた。モーセは、主と話したために自分の顔の肌が輝きを放っているのを知らなかった。(29)
神の御側にいて、身に起こった変化にモーセは気づいて居なかった。
聖霊に満たされた日々の変化も、自分では気付かないことに此処で分かる。キリストに似た者とされて行く聖化にも、本人は気付かないのだろう。それは空気の中で空気を吸って生きるように、うちなる神の力に在って受ける、一方的な養いに拠ることであるから・・。