主は言われた。「今ここで、わたしは契約を結ぼう。わたしは、あなたの民がみないるところで、地のどこにおいても、また、どの国においても、かつてなされたことがない奇しいことを行う。あなたがそのただ中にいるこの民はみな、主のわざを見る。わたしがあなたとともに行うことは恐るべきことである。(10)
此処でもっとも恐れ驚くべきことは、「わたしがあなたとともに行う」ということばである。
天地創造の神が奇しいわざを行われるのに、モーセともに行うと約束されたのである。モーセであれ、アブラハムであれ人が関わるということは、神には不自由と忍耐が伴うということなのである。
共に働くのは相棒であり主従関係とは違う。造られた者が、創造主に服従することは当然であるが、主が求めておられることは、信頼と愛による交わりの中で共に働く人であった。
私たちは神とともに働く者として、あなたがたに勧めます。神の恵みを無駄に受けないようにしてください。(Ⅱコリント6:1)
神の恵みを無駄にするとは、共に働こうと招いてくださった時に、失敗を恐れて尻込みすることである。それは謙遜ではなく傲慢である。
造り主なる神が、人が何ものであるかをご存じないだろうか、ご真実な主が人の弱さの中に、すべての必要を満たして共に働く交わりに招いてくださったのである。
神の恵みを無駄にするような謙遜は、主の愛を知らないゆえの不信仰である。赦しに満ちたキリストの愛を味わって、主を慕い求める者は地上の何にも勝って、御側に居ることが喜びであり、共に働くことはこの上もない光栄であって、我を忘れて飛びつくことである。その時、人はただ主だけを仰いで、望みに溢れ我を忘れているのである。
わたしが今日あなたに命じることを守れ。見よ、わたしは、アモリ人、カナン人、ヒッタイト人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を、あなたの前から追い払う。
あなたは、あなたが入って行くその地の住民と契約を結ばないように注意せよ。それがあなたのただ中で罠とならないようにするためだ。(11~12)
神がご自分の民のために備えられたカナンの地では、彼らに戦えとは言われず、主が先住民を追い払うと言われた。その地は、神がイスラエルのために造られた地だからである。追われた民には彼らの居るべき場所があり、すべては造り主のものだからである。
主がその子らに居場所を備えてくださることは、今も同じである。主のみこころを行って働くべき所のためには、私たちの知らぬ間に主が備えていてくださり、信仰を迫害して動けなくする者を追っ払い、自由に動ける場所を備えて下さることがある。
そのことを祈ったわけでもなく、願うことさえ思いつかない間に、神が最善に備えてくださるのである。
だから環境や明日を思い煩う必要はなく、キリスト者がみこころを行う時は、何時でも何処ででも自由を得るのである。
ただ、人を恐れて早々に妥協し、世に調子を合わせてみことばを差し引くなら、そこに主が介入される余地はない。
戦いの日々は主の御わざを経験させて下さる時であり、私たちの戦い方は主を待つことである。
少しの忍耐の中で、堅くみことばにとどまって主を待つ時、生きて働く主の勝利を見る。そこは穏やかな住みよい所となり、働きやすい所となることを私は経験している。
いや、あなたがたは彼らの祭壇を打ち壊し、彼らの石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒さなければならない。(13)
現在は偶像を壊すことなど不要である。すでにイエス・キリストという、本物の神が歴史において地に下り、人間の歴史において多くの人々によって知られてあり、歴史にその日その時が刻まれている。
今は、誰でも死んでよみがえられ永遠に生ける神を知ることが出来るからである。
あなたは、ほかの神を拝んではならない。主は、その名がねたみであり、ねたみの神であるから。(14)
神のねたみは、人にはとうてい及びもつかないほどの愛から出たものである。誰が罪と偽りと絶えず心変わりする者に、そのような世に、罪なきひとり子を与えるほどに愛するだろうか。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)
救われた者は真実を記された聖書を、世のすべての出来事の中で語り続けて、風見鶏のようにキリストを指し示し続けるのである。
偽りの神々は無数に現れるが、やがてサタンと共に滅びるものであることは、聖書に記されてあるからである。
あなたはその地の住民と契約を結ばないようにせよ。彼らは自分たちの神々と淫行をし、自分たちの神々にいけにえを献げ、あなたを招く。あなたは、そのいけにえを食べるようになる。(15)
キリスト者が世で生きる時に日々に迫られるのは、神を恐れるのか、サタンの支配にある世を恐れるのかである。
すべての事柄に置いて、永遠を求める者は神を第一にするのであり、目の前の世を求める者はサタンに従っているのである。その両方を求める行為を神は淫行と言われる。