さて、パリサイ人たちと幾人かの律法学者がエルサレムから来ていて、イエスの回りに集まった。(マルコ7:1)
彼らは弟子が手を洗わないで食事をしたことを訴えたが、彼らの固く守っているものは人の言い伝えであり、それを神の言葉とすり替えて、神の言葉を空文にしていた。
イエスさまは、口に入るものが人を汚ことはなく、人の心から出るものが人を汚すことを教えられた。
外側から人に入って、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。
内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、
姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、(マルコ7:15.22)
たしかにパリサイ人たち宗教者は、悪い考えによって計画を立て、妬みによって殺人を犯した。神を欺いてみことばを人の言い伝えにすり替え、高ぶってイエスさまを裁き、愚かにも、イエスさまのことばに耳を傾けて知ろうとはしなかった。
人はイエスさまに色々な目的をもって近付く、女は娘から悪霊を追いだして頂きたくて御前にひれ伏した。
するとイエスは言われた。「まず子どもたちに満腹させなければなりません。子どもたちのパンを取り上げて、小犬に投げてやるのはよくないことです。」(マルコ7:27)
神の選びの民である「子どもたち」は、神の言葉を空文にして聞く耳を持たなかった。それでも、救いの約束を彼らから取り上げることはできないのは、神の御真実に拠ることである。
しかし、女は答えて言った。「主よ。そのとおりです。でも、食卓の下の小犬でも、子どもたちのパンくずをいただきます。」
そこでイエスは言われた。「そうまで言うのですか。それなら家にお帰りなさい。悪霊はあなたの娘から出て行きました。」(マルコ7:28~29)
みことばは「信じたとおりになる」のである。この女がイエスさまのパン屑の豊かさを知っていることとの対比は、救いが異邦人から起こることを現している。
耳の聞こえない人を癒されたイエスさまは、誰にもいわないように口止めされた。でも、彼は言いふらした。人は体の癒しを求めて満足する。でも、イエスさまの目的はそれではない。永遠に至るいのちの救いである。
イエスさまに感謝する者はみことばを大切にする。家族を巻き込んで命を賭けるほどに・・。
みことばを無視するなら主の働きを妨げることになる。黙って恵みを受ける経験は大切で、それは主との信頼関係に拠る。ただ、ただ、豊かな恵みを受け続ける時にも平安はある。証するのは聖霊に拠ることだから。
群衆はパンや癒しなど体のために集まり、宗教者は訴えるために集まる。キリスト者は永遠を求めてみことばに聴くために、イエスさまに集まるのだ。
イエスさまを悲しませるものは、みことばを聴く耳をもたないことである。主は日々新しいことを教えようとして待っておられるのだ。
イエスは、そこを出てツロの地方へ行かれた。家に入られたとき、だれにも知られたくないと思われたが、隠れていることはできなかった。(マルコ7:24)
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