主人の聖書カバーは絣木綿。それは何十年もタンスに眠っていた布。しゃきっと張りのある木綿はカバーにすると手触りも良かった。
主人がイエスさまを受け入れた時に買った聖書。真っ新な聖書に大きな字で名前を入れる主人の様子を、今もはっきり覚えて居る。とても嬉しかったから・・もう15年ほどになるかな・・。
その布は、丸く曲げた木に漆を塗って仕上げた、お櫃のような弁当面櫃(メンツ)を入れるための、オチガイを作った残り布。オチガイはネクタイのようにバイアスに長く縫って、真ん中にメンツを滑り込ませて腰に結びつけるもの。一反の木綿を買って作るもので、メンツには二合ほどご飯がはいる。身と蓋に2食分いれるようになっていた。山に着くと一食を食べる。道具を持って仕事場に行くだけで一仕事ということなのだろう。
時々、空のメンツに蕗の葉で包んだ木イチゴなどか入っていた。蟻が入っていたりしたけれど・・甘いお土産を口に放り込みながら洗ったものだった。
台風で、裏山の木々が近所の住宅の屋根に倒れかかった時、それらを山側に倒して家々を守ったことがあった。
みんなで息を止めて見ていた。一歩間違って家側に落ちると住宅が潰れるから・・。私は主人の仕事を初めて目の当たりにして、主にしがみつくように安全を祈りながら見ていた。
主人の「見ときや」と言う声で、屋根に被さっていた大きな木が、バサッと山側に寝返りを打った。
何日か掛かって全部片付け、ご近所さんに幾らか払うといわれた時、主人は「ええ、ええ、要らんよ」と言った。あの時から主人を少しは尊敬した。ふふふ・・
今、あのように木を扱う山行きさんが、どれくらい居られるのだろう・・。山々は放っておかれて暗くて無惨な姿が多い。昔は美林と歌われた地方なのに・・。
植林された山は手入れしないと崩壊してゆく。木は勝手に真っ直ぐに育ちはしない、荒れた山を見ると胸が痛む。
朝、暗い内に起きて、炊きたてのご飯をメンツにぎっしり詰め、おかずも2食分入れて、オチガイにスルスルと滑り込ませて渡すと、腰にきりっと結び斧や様々な道具を差し、夜が明けたばかりの山に入って行く主人は頼もしかった。
「もうええ、もうええ。」「ありがとう、ありがとう」と繰り返しつつ、天に召されてもう3年半も過ぎた。40数年共に生きた日をゆっくりと思い返す余裕が、やっと出て来たのだと思う。まあ、また会える日もそれほど遠くはないだろうし・・。
今私が紺絣のその聖書を使っている。きれいだった聖書を書き込みや線だらけにして消費している。ふふふ・・
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