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石ころ

今朝のみことば マルコ8章から(4月2日)



 
 再びパンの奇跡、イエスさまは7つのパンを、父に感謝を捧げそれを裂いて4,000人以上の群衆に配られた。父なる神様から、感謝をしてイエスさまが受られ、御手を通して裂かれるたびに増えて行ったのだ。
7つのパンが何千個になったのじゃないんだ。7つは7つであった。すべては御手を通るときに完全に満たされる。


 十字架で裂かれたイエスさまの御体は、求めるすべての人に分け与えられ、どんな罪に対しても完全なあがないとなり、父なる神様の前に無罪とするものである。
このイエスさまの御救いの完全、豊かさを常に覚えていないと「悟りがない。」とイエスさまを嘆かせてしまう。

弟子はこの直後にパンのことで騒いでいる。本当に人とはこう言う者である。パンとはこの世ではお金のことであろう。
幾度必要を満たされて危機を過ぎ去らせていただく経験をしていても、同じ心配を繰り返して悟ることがない。
「たった7つしかないではないか・・」と群衆を前に悩む時、イエスさまの深い嘆息が聞こえてきそう・・。


 7章の32節では、耳の不自由な人を癒され口止めをされた。
目の不自由な人の癒しでは「村に入らないように」と言われた。人に会うことを避けよとのこと、つまり言いふらすな。
「キリスト」というペテロの告白の時も口止めをされた。真意を知らずに話すなということ。それは、サタンによってねじ曲げられ用いられることになるから。

真意とは神様の計画、十字架を通して人に与えられる永遠である。人はなんと永遠に対して鈍感であり、思いの及ばないことであろう!此処にサタンは働く。
イエスさまの十字架を否定するペテロを叱るときに、イエスさまは「さがれサタン」と言われた。「さがれペテロ」ではなかった。此処で働いたのはサタンであるから・・。

この前にペテロは「キリスト」と告白をしたが、その意味がわかっていなかった。「キリスト」は永遠への救い主であり、この世の救い主ではない。
食べて無くなるパンを与えるためではなく、必ず土に帰る体の癒しのためでもない、キリストは永遠を与えるお方なのである。


 サタンはその救いの意味をねじ曲げ、混ぜものをしてて広めようとする。この世のこと、自分自身のことに目を向けさせようと罠を設け、目を世に釘付けにさせ、みことばを聴く耳を不自由にさせる。
人にはサタンの言葉は分かりやすい。彼はいつも神様のことではなく、人を中心に語ってくれるから・・。
人には永遠は目が開いていても見えず、耳があっても聞くことができない。

だから、イエスは言われる。自分の十字架を負って付いてきなさいと・・この世のもろもろを「取り除いて下さい」と願うのではなく、自分の計画に囚われるのでもなく、明日を思い煩わないで永遠を求めなさいと・・。

今日私は何を求めているのだろう・・私の家族のことで何を求めているのだろう・・もし、その時永遠への思いが第一でないなら、口には手を当てて話さず村には入らない事がみこころなのだろうと思った。

「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」(マルコ8:33)

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