石ころ

神の言葉は非常に重い⑪ (ヨブ記)

 

ヨブ記を読んでいて、始めはサタンによって降りかかる災難に同情的に読んでいても、いつの間にか友人たちと一緒になって、ヨブをなじる心がある。神が初めにサタンに紹介されたヨブと、変わってしまうわけがないのに・・。

 

依然として打たれたままの惨めな状態にありながら、悔い改めようとしない態度や、言葉数の多さに苛立つようになるのだ。
正しい者が打たれるはずはないと、それぞれが自分の正しさの中で、安全だ平和だと言っていたいからでもある。

 

ヨブはまた、自分の格言を取り上げて言った。
ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに。神が私を守ってくださった日々のようであったらよいのに。
あのとき、神のともしびが私の頭を照らし、その光によって私はやみを歩いた。
私がまだ壮年であったころ、神は天幕の私に語りかけてくださった。(29:1~4)

 

神は交わりを過去の思い出にはなさらない。神はご真実であり、祝福は永遠に至るものである。今、時が良くても悪くても三位一体の神は少しも変わらない。

イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。(へブル13:8)

 

全能者がまだ私とともにおられたとき、私の子どもたちは、私の回りにいた。(29:5)

 

すべてを失った時、「主は与え。主は取られる。主の御名はほむべきかな。」とヨブは告白した。その告白は変わってはいない。なを神を求めて理不尽の中に座っている。
自分を主張しても、子供たちのことをもって神に恨みごとを言うことはなく、子供たちを惜しんで口にしたのは一度きりであった。

 

それはヨブの従順でありこのことのゆえに、神は後のヨブに思い煩う必要のない優れた子供たちを返された。

 

私は不運な人のために泣かなかっただろうか。私のたましいは貧しい者のために悲しまなかっただろうか。
私が善を望んだのに、悪が来、光を待ち望んだのに、暗やみが来た。
私のはらわたは、休みなく煮えたぎる。悩みの日が私に立ち向かっている。(25~27)

 

ヨブの記憶にある良き行いによって、神の祝福が正当な代価であったと思うなら、それは間違っている。良き行いができる環境を守り、その良き心を守られたのは神だからである。
ヨブが今良き行いができなくなってしまったことから、その事実を学ぶことができるのである。

 

もし私がうそとともに歩み、この足が欺きに急いだのなら、
正しいはかりで私を量るがよい。そうすれば神に私の潔白がわかるだろう。(31:5~6)

 

義人はいない一人もいない。ただ、神が御子の命をもって罪の代価を支払われ、正しいと認めてくださったのである。ヨブは今この間違いを問われているのだ。すべての出来事の中で、神は愛する者を実子として訓練される。

 

若者エリフの言葉
今、私の腹は抜け口のないぶどう酒のようだ。新しいぶどう酒の皮袋のように、今にも張り裂けようとしている。
私は語って、気分を晴らしたい。くちびるを開いて答えたい。(32:19~20)

 

みこころを知らず、ヨブを知らず、ただ自分の中にある善悪を神のように語り、自分の腹にたまった肉性を吐き出して責める彼の言葉は、正しいようでも、神のことばとは似ても似つかないものである。

 

「神は私のたましいを贖ってよみの穴に下らせず、私のいのちは光を見る」と。
見よ。神はこれらすべてのことを、二度も三度も人に行われ、
人のたましいをよみの穴から引き戻し、いのちの光で照らされる。耳を貸せ。ヨブ。私に聞け。黙れ。私が語ろう。(33:28~31)

 

ヨブを苦しみ続けさせたものは、神のことばではなく、友や見知らぬ若者の人の言葉であった。此処でサタンは、「善悪知識の木の実」を食べた人の善悪を道具として、すでに痛みを負っているヨブをねちねちと苦しめていた。
ヨブがこの責め言葉に屈服して、心にもない偽りの悔い改めをさせるためである。

 

ヨブのような人がほかにあろうか。彼はあざけりを水のようにのみ、
不法を行う者どもとよく交わり、悪人たちとともに歩んだ。(34:7~8)

 

神はヨブをそのようには言われなかった。山のように正しい言葉を語っても、神の愛する者を、神の名を借りて裁くことは恐ろしい。
神は、ヨブの友人をとりなして赦しを与えられたが、エリフは無視された。神に無視されること以上に恐ろしい裁きはない。

 

ヨブは終始、呻くように神のことばを求め続けた。たとえ叱責であっても御声を聴きたいのである。神から出るものが愛であることを知っているからである。

 

今も、世でコロナの感染者を苦しめ責め立てる言葉がある。その人はサタンの道具となっているのだ。互いに責め合ったり訴えあったりするのは、「善悪知識の木の実」を食べた後遺症である。

 

どれほど警戒して自分を守ろうとしても、人類は100パーセント死ぬ罪という病に感染しているのであり、この死からいのちを救うワクチンはみことばだけである。


しかし、今なら誰でも読める聖書が有り、誰でも聴くことができるメッセージがあるのは、神の愛による備えである。


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