石ころ

求めなさい。捜しなさい。叩きなさい。



さて、レメクはその妻たちに言った。「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。私の受けた傷のためには、ひとりの人を、私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。
カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」(創世記4:23~24)


 神様が殺人者カインにしるしを与えてくださったのは、100パーセント憐れみに拠ることである。レメクの言葉には、憐れみの上に胡座をかいて思い上がる恐ろしさを感じた。
でも、人はそのようなことをする愚かさを持っている。自戒を込めて・・そのような者は滅びる。

聖書に書かれている言葉は玉石混淆であり、いのちに関わる神のことばから、腹立ち紛れの人の言葉まである。決してすべてが神のことばではなく、用いてはならない箇所もある。
注意して読めばわかることもあるけれど、聖書全体から主を知ることによって初めて分かってくることがある。

ヨブ記には人の知恵による正しい言葉が山盛り書かれているけれど、神様とは何の関係もない言葉である。
大切なことは聖霊の導きによって切り分けることで、それは主を知るための必須条件である。私たちにはイエスさまがおくってくださった助け主が居られるのだから。


 なぜ神様がそのような紛らわしいことをあえてされたのだろうか・・。価値あるものを得るにはそれなりの代価を支払うべきであるから、代価を支払うチャンスを残してくださったのではないか・・。
もちろん、いのちの代価はイエスさましかいないのだけれど、神様は私たちにも差し出せるものを残された。
それが求めることであり、叩くことであり、私たちの主を知りたいという熱心である。

「あなたの立てた指導者が間違っていたから・・」そんな言い訳は、アダムが「あなたのおかれたこの女が・・」と言ったことと同じであり、御前に何の言い訳にもならない。
エバが差し出してもアダムには食べない自由があったのである。

結局食べたアダムがすべての責任を負うことになったように、私たちにも自分で主に聞くという自由があるのであり、それによって責任は自分で負うのである。
みことばは自分で読むものであり、直接主に聞くことは主が求めて居られる私たちの捧げ物なのである。

福音は、投げ与えられたものなら何でも食べる犬や豚の餌ではなく、自身で吟味して真理を探し求める人のものである。

聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。
求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。(マタイ7:6~8)


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