「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたは土のちりだから、土のちりに帰るのだ。」(19)
人に死が入った時から、土のちりから造られた身は土に帰る者となり、神から生まれた霊は神のもとに帰るようになった。
キリストから新しく生まれた者が、キリストの御許に帰るのは神の愛に拠る。今はそのために備えられている恵みの日である。
人は妻の名をエバと呼んだ。彼女が、生きるものすべての母だからであった。
神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作って彼らに着せられた。(20~21)
アダムが罪ありと判断した体と、心に在る罪責感を覆い隠すことによって、人は命を繋いでいる。しかし、それは絶えずサタンに責め脅される材料となり、神の御目を避け、他人の顔色を伺って生きている。
神がひとり一人に備えてくださった個性が押しつぶされ、人に与えられている最高のパフォーマンスが出来なくなっているのだ。
何とか世のもろもろを身に付けて権威を保とうと、平安を得ようと頑張っても、それは一時の後に枯れるいちじくの葉に過ぎないことも、知るのである。
神が着せてくださった皮の衣は、動物の血が流されて取られたものである。園の生き物はすべて草食であったことから、この時まで動物の血が流されることはなかった。
それは始めて流された血であった。それは人の罪のために殺された血であった。それはキリストの十字架に至り、多くの人の罪をあがなうために、神の御子が流さる血によって完成されるのだ。
アダムは、神に着せられた衣によって、しばらくの間の命が守られる。それは神の忍耐の衣である。
造り主なる神を神としない罪の報酬は死であるが、人類の死をしばらくの間覆って、救いを得させるために時が与えられているのである。
神である主はこう言われた。「見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」
神である主は、人をエデンの園から追い出し、人が自分が取り出された大地を耕すようにされた。(22~23)
今、その大地は食べ物を生み出し、慰めの花々を咲かせ、家を建てるための木々を育てる。この地にも神の憐みは満ちていて、労働の実を楽しむ時も備えてくださっている。
こうして神は人を追放し、いのちの木への道を守るために、ケルビムと、輪を描いて回る炎の剣をエデンの園の東に置かれた。(24)
神の御目を避けつつ神の園で過ごす日々がどんなに長くても、それは逃げ隠れのための命の時に過ぎない。
愛もなく信頼も失ったままに、罪に怯えつつ生きる命に終わりがないことは、恐ろしいことである。神はそのような命が、永遠に続くことの無いように守られたのである。