石ころ

挑戦





 仲代達矢さんが、このような意味のことを話して居られた。
「60代になって、自分を暴露してやろうと思った。駄目なら駄目でよいという少し居直った気分・・。
80代になって駄目で元々、楽しければ良いと挑む気持ちがある。」
私は「やはりこういう人が居られるんだ!」って、探していた人に巡り会えたような感動を覚えた。

人には年代に応じて負うべき責任があるけれど、年老いた素晴らしさはそれらから解放されて、真に追い求めつべきものに挑戦できることである。しかし、老いてなを守りの中では何とつまらない人生だろうと思う・・。
挑戦したいものを持っていることは幸いだ。成功や失敗なんて他人の評価ではなく、その満足は生きているという実感そのものだから・・。

 たとえ最期は呆けて死んでも、人生を輪切りにしたら「真っ赤な完熟」が現れるようだといいな。熟れ損ねたスイカのように白い種に、守りの皮ばかりが厚いような人生だと悲しい。
でも、ただ平凡なだけに見えた人が「完熟」だったりして驚くのかもしれない。人の目にはどのように映るかわからないから・・。


 妻は夫が生きている間は夫に縛られます。しかし、もし夫が死んだなら、自分の願う人と結婚する自由があります。ただ、主に在ってのみそうなのです。(Ⅰコリント7:39)

このみことばを発見したときはかなり驚いた。「願う人」がある女(ひと)は幸いだ。
キリストの花嫁とされているクリスチャンの女性には、とてもリアルなみことばに感じる。
みことば通りに夫に仕えて来た女性なら、その感慨はなおさらだろうなぁ・・。

「結婚した女は、どうしたら夫に喜ばれるかと、世のことに心を配ります。」(Ⅰコリント7:34)
こうしたことからの解放もあるのだろう・・。
不思議なことだけれど、ひとりなって「いかに生きるか・・」なんてことをよく考えるようになった。暇になったと言うことなのかな・・。

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