石ころ

大切な今日という時(申命記31章)

 

主はモーセに言われた。「今や、あなたの死ぬ日が近づいている。ヨシュアを呼び寄せ、あなたがたは会見の天幕に立て。わたしは彼に命令を下そう。」モーセとヨシュアは行って、会見の天幕に立った。(14)

 

モーセに残された時間が差し迫っていた。彼は主の命じられることをすべて成し遂げなければならない。
彼には自分のことを心配する時間はなかったろう。しかし、命の終わりまでみことばに集中できるとは、神を信じる者にとってこれ以上ない幸いである。

 

主ご自身があなたに先立って進まれる。主があなたとともにおられる。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない。恐れてはならない。おののいてはならない。(8)

 

もし死が、信頼する神との別れならどれほどの恐怖であろう。しかし、主が共におられることを知っているなら、主に従って働く今日と変わらないのである。

 

私たちにはキリストが人の死を経験してくださり、よみがえりの新しいからだで弟子に現れ、永遠のいのちを知らせて「平安があるように」と繰り返し語られたことを知っている。
キリスト者も死を経てこそ、キリストの御許で永遠を生きる者なのである。

 

今朝は「今日という日は二度とない日、大切にお過ごしください」というような言葉が、ラジオから流れて来て一瞬緊張した。
それほど大切な今日に何をするべきか、何を優先して過ごし何を遺すべきなのか・・。
しかし何時ものように主に信頼して過ごし、いつものように主に教えられた言葉を書いている。

 

モーセは民に在る将来を語り、これから彼らが経験する試練と共に、主は選びの民を見捨てることはないと望みを伝え、イスラエル十二部族にある主のご計画を語った。
モーセは創世記から、イスラエルの将来までを主に聴いて記し役割を完了した。

 

モーセは命の終わりを明確に知ったが私たちは誰もその時を知らない。それゆえ明日のための備えが必要な身である。


二度とはない時を大切に過ごすにも、「イエスに目覚めていよう」ということである。御声を聴いたら「アーメン」と即答するためである。そうするなら、今日も明日も主の最善に在って、みこころを行うことが出来るのだから・・。

 


天幕におられた主が、今はキリスト者のうちに近しく近しく居てくださる。すでに充分に価値のある時を過ごしているのだ。

 

キリスト者には祭司として、今日主にたまわっている大切な仕事がある。それらのすべてを成し遂げるために聖霊のお導きもある。

誰も一寸先のことを知らないけれど、天地創造の神は初めから終わりまでを知っておられるのだ。此処に平安がある。


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事