ペテロは言った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみなそう言った。(マタイ26:35)
イエスさまはこのように言うペテロを、ゲッセマネの祈りの時も近くに置かれた。悲しみもだえて祈られるイエスさまをペテロたちは見ていたのだろう。
イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。(ルカ22:45)
肉は脆く、共に悲しむことはできるけれど何の役にも立たない。目を覚ましていることさえ出来ない。
大人だって泣き寝入りしてしまうことがある。もう何も考えることが出来なくなるほど絶望するとき、まるで脱出口のように睡魔が襲ってくる。彼らのそんな様子が浮かぶ・・。
「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」(マタイ26:41)
すべてをご存じのイエスさまはそれでも目を覚ましていなさいと言われる。イエスさまが命じられることにはすべてイエスさまの備えがあるはず・・。
「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」(マタイ19:26)
イエスさまがお弟子を「立ちなさい。さあ、行くのです。」と導かれたところは十字架、目に見える主を失うこと。まったくそれは敗北のようであった。
イエスさまが彼らに見せられたのは、打たれれば崩れる肉の弱さ。
誓っても何の役にも立たない魂のがんばり。そこにある敗北。
イエスさまは彼らをお側に置いて、成功ではなく敗北を見せられた。
今も、主が共に居て下さる中で敗北することがある。すべての計画が崩れてしまうことがある。
でも私たちがイエスさまを必要としている限り、すべては主の良いご計画の中で起こっていることである。それは間違いのない事実。
わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。(ヨハネ14:18)
完全な敗北のようであった十字架は、私たちの救いの成就。そこで私たちは救いを得たのだから・・
イエスさまを目で見ることが出来なくなったとき、彼らは霊で見るようになった。その時から、彼ら、また、私たちの関係は永遠となった。
聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。(使徒1:8)
働きのためのすべての必要を満たすのは主。
絶望の時、悲しみの時、みことばの約束に留まり主を待とう。ほら!花婿を待つ灯火の油を豊かに満たしていてくださるのだから。
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