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石ころ

マタイ12章から

「そのころ、イエスは、安息日に麦畑を通られた。弟子たちはひもじくなったので、穂を摘んで食べ始めた。すると、パリサイ人たちがそれを見つけて、イエスに言った。『ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。』」

パリサイ人たちは弟子の行為を見てイエスさまを責めた。安息日は神と人の喜びの日だと思う。幸せのために備えられた安息日をネタにして、縛りつけ、裁きの道具とすることが、どれほどみこころをねじ曲げていることだろう・・、イエスさまは律法を全うするために来てくださった安息日の主。

「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない。」
イエスさまがどういうお方かいつも覚えていたい。人は罪の中で、絶えず誰かをいけにえにしてしまうから・・
「主のあわれみの中に存在しているのだということを、私が忘れないように守ってください。」と祈ろう。私はとても忘れっぽいから・・・。

「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは。」
人は、誰だって痛んだ葦であり、くすぶる燈心。それでも主が勝利にみちびいてくださるのだから、主に拠り頼んで居る者には望みはある。主が切り捨てない者を、私が切り捨てることがないように祈ろう。

イエスさまが片手の萎えた人を癒されたとき、群衆は「この人は、ダビデの子なのだろうか。」と言い、パリサイ人は「悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」と言った。

群衆の中で「ダビデの子なのだろうか」と言っていても信仰の告白ではない。
パリサイ人に働いたように、サタンは人の肉の心にささやく、意に添わぬ者を指して「あいつこそ悪魔だ」と・・、こんな声を聞いたならイエスの血によって即座に洗ってもらおう。なにしろ彼はまったくの嘘つきだから。こともあろうにイエスさまをベルゼブルと教えるのだから。

信仰生活に入り、クリスチャンとして清い生き方をしようと出発をしても、どうして私たちにそんなことが出来得よう・・生まれながらの罪の血筋。心に沸き上がる罪を私たちはどうすることもできない。
そんな事実に、取り繕って目をふさぎ「誰かのようではない」と言うとき、白く塗った墓となる。七つの汚れた霊の住み家となって、心の中に主の嫌われるものがとぐろを巻いて住み着き、十字架を知らない良心は、責め、さばき続けるだろう。
イエスさまが成し遂げてくださった十字架の救いに安息しないで、何かを自力で付け加えようとすることはあまりにも愚かなこと・・。


 みことばを持って彼女の家に伺ったとき、いつものようにきちんと居住まいを正して、美しく着替えてみことばを開いて待っていてくださる。
そんな彼女から学ぶことは多い。女のくせにそういうことに無頓着な私も、ちょっと鏡の前に立って身支度を整えてから伺うようになった。やはり美しくしている彼女は心地よかったから。

みことばを学んだ後は、いつも言われる。「ここは一番大事なところやね。」
彼女には、聖書を開くたびに一番大事なみことばが増えてゆく。私にもその感動が流れてくる、みことばをおなさ子のように信じて聞き、一年生がはじめて開いた教科書を、喜んで丸ごと覚えてしまうかのように吸収して・・。

「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです。」
まるでこのみことばを見ているよう・・・。

彼女は、「教えて」と付きまとうように求められたときの贈り物攻撃はすっかり止んで、伺ったときも、美味しいお番茶を準備してくださっているだけで余計なものはない。時々は茄子や、キュウリを頂くけれど・・それは主の祝福のお裾分けと、頂く私にも喜びと平安がある。

「兄さんに教えてあげたら励まされた。『良かったな、しっかり勉強せえよ』って、兄さんの分も祈っているからと言ってあげた。」友達、親族、近しい人たちになんとかイエスさまを知った喜びを伝えようとしておられる。神の平安を知ってしまったから・・。

「イエスさまを伝えることは嬉しいでしょう。同じように、私もあなたに伝えることが出来て嬉しいよ。」と話すと、「ああ、良かった。いつか『もう終わり』と言われたりしたらどうしようかと思っていたから。私はこの日を楽しみにして一週間を過ごしているから。」
そんな言葉に私は厳粛な思いにさせられる。こんな何の取り柄も、知識もない者の働きでも喜んでくださる方が居られる。まさしく、彼女を愛する主が働いておられるのだと、主の通りよき管でありたいと願いつつ、その時その時、今日交わるみことばを導いて下さいと祈る。私もいつでも一年生だから。

「あなたがたは、わざとらしい謙そんと天使礼拝とにおぼれている人々から、いろいろと悪評されてはならない。彼らは幻を見たことを重んじ、肉の思いによっていたずらに誇るだけで、キリストなるかしらに、しっかりと着くことをしない。このかしらから出て、からだ全体は、節と節、筋と筋とによって強められ結び合わされ、神に育てられて成長していくのである。(コロサイ2:18)

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