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石ころ

イエスの生涯 21

マタイの福音書11:2~30 

11:2 さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、
11:3 イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」

バプテスマのヨハネは獄中でイエスさまの何を聞いたのでしょうか。
イスラエル人がそれまで思い描いていた救い主とは違っていたということでしょうか。人は誰でも、自分の目で見ていないと不安になる弱さを持っています。
「見ずに信じる者は幸いです。」と聖書に書かれていますが、イエスさまはこのとき、信じることが出来ないトマスのために、わざわざ十字架の傷跡を見せに来てくださったのです。
私たちはイエスさまのお側にいて、主の助けをいつも見ていないと不安になる者です。


11:4 イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。
11:5 盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。
11:6 だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」

「わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。」(ヨハネ14:11)
イエスさまはこのようにおっしゃいました。ヨハネはイエスさまのわざを直接見ていないし体験もしていません。そのことはヨハネの弱さだと思います。
どんなに小さな事であっても、日々の生活の中でイエスさまの助けを体験することができることはとても感謝なことです。


11:11 まことに、あなたがたに告げます。女から生まれた者の中で、バプテスマのヨハネよりすぐれた人は出ませんでした。しかも、天の御国の一番小さい者でも、彼より偉大です。
11:12 バプテスマのヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています。
11:13 ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。
11:14 あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こそ、きたるべきエリヤなのです。

ヨハネは旧約聖書と新約聖書の間に出てきて、その橋渡しをするような立場でした。彼は揺れる心を持っていたのですが、そのことによって彼の価値がおとしめられると言うことはありません。イエスさまは彼を評価されました。
不安になったり、疑いが生じることは悪いことではないのですが、即座にイエスさまに聞くことは大切です。今、私たちは祈りつつ、聖書を繰って確かめ主のお約束を確認することができます。このことこそ、イエスさまを何時も見ていると言うことだと私は思っています。


11:15 耳のある者は聞きなさい。
11:16 この時代は何にたとえたらよいでしょう。市場にすわっている子どもたちのようです。彼らは、ほかの子どもたちに呼びかけて、
11:17 こう言うのです。『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。弔いの歌を歌ってやっても、悲しまなかった。』
11:18 ヨハネが来て、食べも飲みもしないと、人々は『あれは悪霊につかれているのだ。』と言い、
11:19 人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。』と言います。でも、知恵の正しいことは、その行ないが証明します。」

救い主が来られ、救いのためのわざを行っても、いろんな屁理屈を並べて、真っ直ぐに事実を見ようとしない人々のことを、イエスさまは嘆いておられます。
「あれ見よ。食いしんぼうの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ。」ヨハネが聞いたのは、このようなうわさだったのではないかと思います。
イエスさまが、罪人たちの家に入られ、彼らの仲間となって一緒に食事をされることは、人々には理解のできないことでした。
彼らにとって人格の清さとは、人を見下げることによって「私は、このような者ではない。」ことで成り立つものだったからです。

彼らは罪人に近づいて、仲間と見なされ自分たちの値打ちが下がるようなことは決してしません。だから、むしろ罪人を省みなさるイエスさまの行動は理解できなかったのです。
そこで彼らは、イエスさまは飲み食いすることが好きなのだろうと考えたのでしょう。罪人の罪を身代わりに負うために来られたなどとは、彼らには理解できなかったのです。
第一、罪人に救いが必要だとは認めてはいなかったのでしょう。彼らは罪のために裁かれるべきであるし、自分たちは彼らのようではなく、罪のない清い生活をしており、誉められることはあっても罰せられることなどないと思っていましたから。でもイエスさまは、そんな高慢で冷淡な罪を憎まれたのです。


11:25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わしてくださいました。
11:26 そうです、父よ。これがみこころにかなったことでした。
11:27 すべてのものが、わたしの父から、わたしに渡されています。それで、父のほかには、子を知る者がなく、子と、子が父を知らせようと心に定めた人のほかは、だれも父を知る者がありません。
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

賢い者や知恵ある者が信仰にいたるよりは、幼子のような単純な者にイエスさまはわかるのです。そのような信仰がみこころにかなったことでした。直ぐな心でイエスさまを受け入れ、そのまま信じる者にイエスさまは共に居てくださいます。

イエスさまのくびきは、固い鉄や木でできたくびきではなく、温かい主の血の通ったくびきです。イエスさまと共にこの世を生きることは信仰に縛られた、堅苦しいものではありません。だって、イエスさまは律法の重荷から私たちを解放してくださったお方だからです。
主に出会ってから私の人生の荷は本当に軽くなりました。イエスさまはへりくだった心優しいお方ですから、私たちはいつでも、安心して安らぎを得ることが出来るのです。(一部割愛)

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