石ころ

聖絶のこと



 旧約聖書の記述で、敵を皆殺しにするという聖絶は愛の神にはそぐわない・・そう思っていた。
しかし、神は愛の神であると同時に聖なる神である。神の聖さ・・、その聖さの故に御子の命を持って罪を処理し、義を打ち立てられたのだったが・・。

この地の多くの王が集まって、共にイスラエルと戦おうとした。
しかし、ギブオンの住民たちは、ヨシュアがエリコとアイに対して行なったことを聞いて、・・(ヨシュア記9:3)


 彼らは計略を巡らし、イスラエルの中に逃げ込む事を選んだ。それは、神に身を任せるという選択に思えた。必ずしも巧く行くという保証は何処にもなかったのだから・・。
彼らはイスラエルの進撃の中に神のわざを認めていたのだ。だから、敵対する事ではなく、憐れみを乞う方を選んだ。何と賢いことだろう・・。

「ご覧ください。私たちは今、あなたの手の中にあります。あなたのお気に召すように、お目にかなうように私たちをお扱いください。」
ヨシュアは彼らにそのようにし、彼らをイスラエル人の手から救って、殺さなかった。(ヨシュア記9:25~26)


 聖絶から逃れる道は備えられていたのだ。
計略を巡らせて助かろうとしたことは、人間的に見て卑劣とも思ったりするけれど、人の行いにおいて、造り主なる神を神とすることこそ唯一の「聖」であり、救われない罪汚れとは、造り主を認めずに、好き勝手に神々を作りそれを拝んで造り主を侮ることである。そこにあるものは絶対の断絶だから、その中に神の愛は及ばないのだ。

今、異邦人の私たちが救いに預かっていることに、彼らの立場が重なるように思えた。私たちが唯一の神を神として、キリストの家族に入れられたのは、ほとんど一方的な備えだったのだけれど、聖霊の助けによって創造主なる神を神とすることができたからだ。ギブオンの人々ほどにへりくだった心を持っていたか・・それは怪しいことだけれど。


すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。(1コリント45:22)

 造り主を否定することは、そのことによって死を選ぶことであって、聖絶の民の中にはすでにいのちはなかったということになる。
死者は葬らなければ生きる者にまでその腐れは及ぶから、だから、聖別することはやむを得ないことなのだろう・・。主に在って生きる者を守るために・・。

 今も聖絶はある。
天国、その永遠のいのちに入るには神との和解が唯一の条件である。キリストの十字架の贖いを信じ受け入れることで、神の備えてくださった救いが自分のものとなるからである。永遠の滅びからの救いには、御子を信じる信仰が必須なのである。

あらゆる計算を尽くして、あらゆる考えを巡らせて、みことばを探り、造り主なる唯一の神、救い主を知ろうとすることは正しいことである。そこに至ろうとすることは賢いことである。
今日この命のある間に、救われるべき方法を探す者には、必ず助け主のお導きがある。ギブオンの人々は、限りある命のためにさえそうしたのだ。


すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。
こういうわけで、私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。(2コリント5:20)


イスラエルの歩みの中にご自身を証してくださった主が、今も私たちの中に御わざを現してくださいますように。

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