通読箇所のルカ23章から関連箇所を読んでいた息子が「変だね」と言う。
「サタンは、旧約聖書を知っていただろうに、十字架の預言は知らなかったのだろうか。イエス様を売るようにユダをそそのかしたとき、イエス様を十字架に架けることになると、分かっていたはずじゃないのかなぁ、十字架はサタンにとっては完全な敗北なのに・・」
「確かに、私も感じていた疑問だよ。サタンは何処まで知っていたのだろう・・。しかし、元々彼は神の許しの範囲でのみ活動しているに過ぎないから・・。サタンの行動も言葉も思考も神のご計画の範囲?・・・そこになんかヒントはないかなぁ・・・。
すべてが、もともと神の許容範囲で起こっていることだとしたら、例えば私たちの人生で、サタンの罠にはまる事があったとしても、主に在っては、望みの中にまだ居るということかもしれないね。主は初めからご存じのことかも知れないから・・。その経験によって信仰の成長があると思うから。」
「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。『主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。』しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。『下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』」(マタイ16:21~23)
「サタンがペテロに言わせた言葉も、ユダに対してのこととは矛盾すると思わないか、ペテロの時は、十字架の邪魔をしようとしたのだろう。」
「サタンがペテロにさせようとしたことは、神のご計画に人間が自分の感情、魂的なものを持ち込んで、神のご計画を支配しようとしたんだと思う。サタンはそのことをペテロにさせようとしたから、イエス様はすぐにペテロを叱責して守ってくださったと思う、クリスチャンの間でも今もよくあることだけど、私にもそんな時イエス様は叱ってくださるよ。
でも、サタンが何処まで知っていたのかはわからない・・。聖書を読んで行くと疑問も増えて行くけれど、いろいろ発見して居るみたいだし、分からないことは先で知る喜びかもね。」
「今はヨハネを読んでいる。」
「要ったらヨハネ書について書かれているものがあるよ。」
「いや。まず自分で読んでからにするよ。」
「それが一番良いかも知れないね。」
みことばを求めることは自分からではないと思う。イエス様のお導きがあってこそだと思うから、本当に心から感謝。主を知ること以上に大切なことはないと思うから。
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