スーパーで後ろから大きな声で名前を呼ばれた。振り返ると、Aさんが丸っこい体で手を挙げて「元気そうやな」と、それこそ元気そうに言われて私はちょっと驚いた。彼女は癌で大きな手術を受け、今も絶えず入退院を繰り返しておられるはずなのだ。けれども「この間から医大に入院して治療を受けていたけれど、あまり良くない」と言われる言葉と、目の前で見ている彼女の様子には、嬉しいギャップがあった。
彼女は以前、家庭集会に通っておられ、多くのイエスさまのわざを見ておられる。けれども、みことばを求めることはなく、教会に通うこともなく、洗礼を受けられるように勧めても、ご自分から求められることはなかった。
それでも、何かある度に「祈って」と言われた。飛行機に乗る時、ご主人が病気の時、手術をするとき等々・・、お見舞いに行くと「看護婦さんにも言っているねん。私は洗礼は受けてないけど、イエスさまを信じているって。いつでも一生懸命にこうしてお祈りしているねん。」まるで子どものような信仰の彼女に接していて、私は戸惑うことが多かった。
私には、信仰には信仰の道筋というものがあり、聖書を知ろうと求め、良いときも悪いときも何時もイエス様を求めるべきであり、彼女は、イエス様を都合の良いときだけ利用しているようにさえ思えて、私の中には苛立つものがあった。
それと同時に不思議でもあった。それはイエス様の彼女に対する驚くような寛大さだった。私は正直彼女にどのように接して良いのか分からなくて、最近は距離を置いていた。
スーパーでのちょっとした立ち話から彼女と別れた後、私はイエスさまのご真実さ、深いご愛に胸が一杯になった。聖書のことは、彼女にはほとんど何も分かっては居ないだろう・・。また、イエスさまの力だけを求めているのかもしれない。しかし、イエスさまはご存じなのだ、彼女にはイエスさまが必要であることを。
そして、イエスさまはそんな彼女を、私のようにあきらめることなどおできにならないで、彼女の今の時を守っておられる。それは、誰にでも「イエスさまを信じている」と語っていた彼女の証の時間としてなのだろう。私は彼女に出会って主を誉め讃えた。
神はモーセに、「わたしは自分のあわれむ者をあわれみ、自分のいつくしむ者をいつくしむ。」と言われました。したがって、事は人間の願いや努力によるのではなく、あわれんでくださる神によるのです。(ローマ9:15~16)
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