石ころ

みことばに従順して喜び楽しむ(申命記16章)

 

アビブの月を守り、あなたの神、主の過越を祝いなさい。アビブの月に、あなたの神、主が夜のうちにエジプトからあなたを導き出されたからである。
主が御名を住まわせるために選ばれる場所で、あなたの神、主に、過越のいけにえとして羊と牛を屠りなさい。(1~2)

 

主がどのように民をエジプトから連れ出されたかを、子々孫々まで覚えているために、神は時を指定し、場所を指定して、神の守りを従順によって覚えさせられる。

何処からどのようにして救い出されたかが明確であるなら、何時でも初めの愛に戻ることが出来る。救い出された日を覚え、そこで経験した神のみわざを忘れないなら、主への信頼は変わることなく再び奴隷となることはない。

 

神との関係がみことばに対する従順が無ければ成立しないのは、昔も今も同じである。キリストの十字架の完全なあがないによって、たまわっている救いの平安も、みことばへの心からの従順に拠らなければ、その人には実現しない。

 

私たちにも良い知らせが伝えられていて、あの人たちと同じなのです。けれども彼らには、聞いたみことばが益となりませんでした。みことばが、聞いた人たちに信仰によって結びつけられなかったからです。(へブル4:2)

 

キリストの十字架の血潮によって赦された事実を、聴いたままに覚え聖霊によって魂を従順させるなら、どのような状況に在っても神の愛を味わい続けて、満足と感謝と喜びによる賛美が心のうちに絶えることはない。

 

そこでは種入りのパンを食べてはならない。七日間、種なしパン、苦しみのパンを食べなさい。あなたはエジプトの地から急いで出て来たからである。それは、あなたがエジプトの地から出て来た日を、一生の間覚えているためである。(3)

 

何処で何をどのように捧げるかは、すべてみことばに聴き従うことから始まる。
今、敵に追われているわけでもない彼らが、これらの主の命令を行うことは、おままごとのような余裕の中で従うことである。主は、彼らにご自身に従順する型を交わりと楽しみの中で導かれる。

 

ただ、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ばれるその場所で、夕方、日の沈むころ、あなたがエジプトから出た時刻に、過越のいけにえを屠らなければならない。(6)

 

大切なことは一つすべてが主と共にあることである。自分の選びや都合という混ぜ物をしないで、みことばに忠実であることで主の臨在を得るのである。

 

そして、あなたの神、主が選ばれるその場所でそれを調理して食べなさい。そして朝、自分の天幕に戻りなさい。(7)

 

羊や牛をいけいえとして捧げ、その肉を捧げた者たちが感謝にあふれて頂くのである。最上を捧げた者は最上を味わうのだ。主の喜びを味わうのである。それは、霊、魂、体を養って満足させ、どんなにか元気と力と平安を回復することだろう。

 

あなたはあなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みの中にいるレビ人、あなたがたのうちの寄留者、孤児、やもめとともに、あなたの神、主の前で、あなたの神、主が御名を住まわせるために選ばれる場所で喜び楽しみなさい。(11)

 

家族で、近しい者たちと、また貧しい人々とも同じ食卓で、神を喜ぶ喜びを一緒にすることは何倍にも喜びが増すことであろう。其処では誰もが、神がどれほど良くしてくださったかを語り合うからである。

 

エジプトから彼らを奇跡をもって救い出してくださった神は、永遠に変わりなく同じ力ある神である。その方は一人ひとりのことを心にかけ喜ばせたい神であり、みな一緒になって主を此処で味わうのである。芳ばしい香りは空に広がって主も喜んでいてくださるのだ。

 

この祭りのときには、あなたも、あなたの息子、娘、男女の奴隷、あなたの町囲みの中にいるレビ人、寄留者、孤児、やもめもともに喜び楽しみなさい。(14)

 

何時もは隔てのある関係でもこの時は主を真ん中にして一つとなる。同じ食卓を囲んで神の御わざを喜ぶ言葉は尽きないであろう。貧しい者の口からも、弱い者の口からも、主をほめたたえる言葉があふれることであろう。

 

あなたの神、主のために、主が選ばれる場所で七日間、祭りをしなければならない。あなたの神、主があなたのすべての収穫、あなたの手のすべてのわざを祝福されるからである。あなたは大いに喜びなさい。(15)

 

奴隷から解放してくださった主を喜び、たまわった自由を御前で楽しむ時間が与えられている。神は人の働きを祝福して休息を与えられる。
休むことが神の命令でないなら、人の貪欲はすべてを備えてくださる神を忘れて、たまわっている時間を死ぬまで浪費し、主が備えてくださった喜びを知らないで滅びる。休息は主の備えに信頼して自分の計画を脇に置いて静まる時でもある。

 

祈りは神の家族の交わりである。それは、自分の計画の手を止めて静まらない限り持つことが出来ないのである。祈りは人生のすべてのことについてであり、「絶えず祈りなさい」とまで命じられている。

 

主は私たちのすべての必要や問題を先刻ご存じである。それにも関わらず祈りを求められる。私たちの祈りが主に必要なのである。
御父と子とされた者の親密な交わりによって、私たちは初めて神の真の愛を経験し、造られた意味や生かされる喜びを味わうことができるからである。愛は主が備えてくださった交わりによって知ることである。

 

すべての必要を神が自動的に備え続けても人が神の愛を経験することはなく、信頼関係が深まることもない。主は私たちとの関係を喜んでくださるゆえに、「祈れ」と「わたしに聴け」と命じられる。

何処で何時祈るのか、キリストの贖いによって救われた者のうちに居て下さる主に、寝ても覚めても絶えず祈るのである。そう、聖霊が導く私たちの霊に在って!

 

そこには人格的な家族の交わりがあり、御父は子らの愚痴も嘆きも痛みの訴えも交わりとして受け入れてくださり、後悔や気落ちも、御前で話す不信仰さえそのままに受け入れてくださる。なぜなら初めからご存じだからである。

 

事実を通して願う願いや、夢や望みも・・細やかな日々の求めなども、言葉にしたり心のうちにあるとき、主は神の子に相応しく在るべき姿を導くために、時に必要を満たして「確かにわたしは聴いるよ」と知らせてくださるのである。


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