石ころ

今日は雨




 昨夜布団の中で、「明日雨やったら、教会までどうやって行こう・・。駅まで歩くのはたぶん無理や・・」そんな事を考えた。以前は歩くことは苦痛ではなかったが最近外反母趾の痛みが増して辛いのだ。

「まあ、いいか。明日起きてから考えよう」と、「明日の事は、明日が心配します。」みことばをつぶやいた。
そうしたらあるブログに「これでは毎日心配しなければならないってことではないか」そんな意味のことが書かれていたのを思いだして、「そうくるか!」って楽天家の私はひとりで吹き出した。

しかし人は今日のことで悩むことはあまりない。なぜならそれは悩む間もなく解決するからである。人は明日の事をゆっくり悩み、将来のことをもっと時間を掛けて悩むのである。だからそれらを委ねるなら悩みは思いっきり減ることになり、決して日々悩み続けることなんかないのだ。
イエス様に委ねるという経験を積むことで、いよいよ悩むことの無駄を知るようになるから・・。

 朝起きると今にも降りそうな空だった。私でも多少は悩むから「何とか保って欲しい」とイエス様にお祈りをした。
しかしとうとう雨は降り出し、時間が迫るにつれて雨脚は強くなってきた。つまりこれがみこころなのだ。

祈りが叶えられようと叶えられなかろうと、微塵も私への主の愛を疑うことはないけれど、「さて、どうするか」それは私に任されている。
先週休んでいるし休みたくない。「礼拝を守る」という律法的なことではなく、単純に同じ信仰の同士に会いたいのだ。
別に会ったからと言ってなんということもなく、挨拶をしてちょっとおしゃべりをするくらいだけれど、ただそれがとっても癒されてほっとする。

 主はいつも何処にいても私の内にいてくださる。教会を休んでもそれは何も変わらないけれど、ただ、時にちょっとしたチャレンジを求められて、どう応えるかを見られていることがある。
応え方一つで、それまでの光の関係にすう~と薄い靄がかかったように距離が開くことがあり、それまでの打てば響くような交わりにすきま風が吹くようになる。私はそれが一番恐ろしいからなんとか主のご機嫌を損ねたくないこれが本音なのだ。

結局バイクで行こうと決心した。きちんと主人のカッパを着たら濡れることはない。ただ、私は濡れた道が怖いのである。
なぜか私のイメージに、濡れた路面に叩きつけられたバイクと自分の姿が以前からありそれが嫌なのだ。本当はそんなことはたいした問題ではなく、例えそうであっても事実はその時私は主のパラダイスという勝利の中なのだから。

 礼拝の帰りも雨が素手に強く当るほど降っていた。しかし、なぜ今日雨だったという答えは得ていた。
年寄りなので何時でもイエス様の所に喜んで行けると公言していた。しかし、それはペテロが「たとえ死であっても・・」って言ったような、自分を知らない部分があったなあ・・と。
でもそれだけではなく、主がくださったチャンスに勝利の快感も感じていた。

主は年寄りに対して介護施設のように甘くはない。むしろチャレンジを要求される。それは、「弱さの中に完全に働く主」に在って勧められて、日々新しく主にお出会いする備えなのだろう、命のある間にしか味わえない主がおられるのだ。
小さな事ににそのように祝福してくださるあま~い主である。

 礼拝はメッセージによって励ましと慰めを頂いて主に深く感謝だった。兄弟の賛美が力強くてのびのびとおおらかで楽しかった。
手術をされた姉妹も元気に来られていて、病気の兄弟も良くなられたとのこととても感謝。
帰ったら長男から電話があり、足の痛みをとるための物を買って送ると言ってくれ、次男は寮からブログの写真を補充しておいてくれた。
日々のすべてが私には主の甘さなのである。

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事