見出し画像

石ころ

山菜摘み

 火曜日の人と学びを終えて、香ばしいお番茶を頂いているとき、
「本当はね、『今日は用事があるから』とお断りしょうかと思ったよ。昨日の雨も止んで、すごく菜摘に行きたかったから。」
彼女の菜摘好きはとっくに知っていたので、
「そんなことなら、用事があるなんて言わないで『菜摘に行くから休もう』でいいのに。」
「でもね、私はイエスさまにこんなに良くしてもらっているのに、菜摘なんか選んだら申し訳ないなぁと思ったの」
「そうね、その気持ちはとてもよく分かるわ、それは素晴らしいことだよ。」
「イエスさまが、菜摘に行ったからって罰を当てたりしないと分かってはいるけれど、やっぱり・・イエスさまのお話を聞くことにしようと決めて菜摘をあきらめたから。」
「大丈夫よ。今から行ってくればいいよ。イエスさまが一緒だからとても楽しいと思うよ。」
「いや、今頃からだったら・・」

そう・・菜摘は誰よりも朝早く行かないと誰かが摘んだ後に行っても骨折り損。10時頃から行ってもあるはずもない・・普通はそうだけれど・・
「私はね、イエスさまのことを先にして、手遅れになったことなんて今まで一度もないよ。数限定の特売の品物だって、ちゃんとひとつ残して下さっていたことが何度もあるよ。そんなときは倍嬉しい。」
「そうそう、確かに私も最近そんなことを経験しているわ。」
ということで彼女はそれから山に行かれた。

 今日とても興奮した様子で話して下さったことは、なんと辺り一面いっぱいの山菜に出会って、イエスさまイエスさまと喜んで、楽しんで採って来たとのこと。
彼女が喜んでいるのは山菜だけではないことが分かる。山菜だけなら私に話すことはないから。彼女はこのように備えて下さったイエスさまが嬉しいのだ。顧みて下さったお方を喜んでおられる。

 私までご真実な主に感動していた。こんなに小さな者に、このような卑近な事柄にさえ、ご自身を現して導いてくださるお方がとてもとても嬉しい!まことに主は生きておられると・・・。小さな事柄を通して永遠のいのちを信じる信仰に導いていてくださる。みことばをリアルに味わうことを導いて下さる。ハレルヤ!

 
「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ、守る者の見張りはむなしい。あなたがたが早く起きるのも、おそく休むのも、辛苦の糧を食べるのも、それはむなしい。主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる。」(詩編127:1~2)

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

コメント一覧

石ころ
祈りの応え
「私の信仰に報いて下さった」とは、ちょっと違うと思います。
ただ、主はとても気前の良い方ですから憐れみだと思います。
そうして、彼女を躓かせないように顧みてくださったのだと思っています。

イエスさまを通して応えてくださるから、なんでも祈って良いのだと、安心して結果は主にお任せして祈っています。

すぐに願いのようにならなくても、イエスさまからのお返事はあります。平安や慰めやもっと良いものだったり・・、ただ時間はちょっとかかったりすることもありますが、待っている間も主との交わりは続きますから大丈夫です。

こんなことも・・、
「今日は洗濯物がいっぱいなので、晴れますように」なんて、ツイッターのような祈りは、晴れるときもあれば降るときもあります。
それでも、雨が降ってもべつにそれほど困ることもなく守ってくださったと、普通に感謝があります。

ヘブルには、「約束のものを手に入れることはありませんでしたが・・」とありますから、最終的に得るものは御国でのお楽しみですね。
でも、この確信も小さなことの積み重ねによって得たものです。

石ころ
心からありがとうございます。
主の御名を賛美します。
ハレルヤ!!
電気屋さんに、主が豊かにすべてのことを通して、喜ばせて下さいますように・・・。
電気屋です

神様は彼女と石ころさんの信仰に答えられて菜を沢山とっておかれました 。
それを、もし無かったらという愚かな 考えをお許し下さい。

”そういう経験がありませんでしたから。 ”と言える信仰、素晴らしいと思います。

ヘブル11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。

石ころさん の信仰に答えて神様が報いてくださったのです。
いくつもの小さな喜びの中で答えてくださる主は素晴らしいです。
石ころ
保護者さん
HN決まりましたね。(笑)
ご一緒に聖書を開いて読むこと、そうして私の知っていることをお伝えして一緒にお祈りしています。
週に一度、30分から50分くらいの間です。
主婦同士の朝の時間なので、ほとんど余計な事はなしで、みことばだけの時間です。

石ころ
電気屋さんへ
 彼女は菜摘に行って山菜を採っただけのことであり、私は家で彼女と過ごしたはずの時間をのんびりしていただけだと思います。そうして、イエスさまの恵みの感動を分かち合うチャンスを、ふたりともひとつ失ったと思います。

 私はこのような、いくつもの小さな喜びの中でイエスさまにお会いして、その上に今日までの信仰のすべてがあります。御利益信仰と今までも沢山言われました。
そう、私はそういう信仰の上にたっています。そうしていっぱい主を喜んでいます。泥臭くてとっても単純な信仰ですね。

「今から行くと良いよ。」と彼女に勧めることができたのは、そうした今日まで私が知っている主に彼女をお委ねしたことによります。もし、ひとつも無かったら・・と聞かれても困ります。そういう経験がありませんでしたから。
もし、彼女が菜摘に行かずに、「イエスさまにその喜びを捧げた」なんて思うことが、イエスさまをお喜ばせするとは思いません。それこそ臭いです。主は私たちをいつも喜ばせたいと思っておられます。
また電気屋ですが
今回の話の内容にはいくつかの興味深い事を思わされました。
普通に読むと行動の優先順位でもイエスをとられた行い
そんな彼女に対してよくしてくださったイエス。まあメデタシメデタシという、良くできた寓話のようなノンフィクション。
ではもし、彼女が菜摘行っていたらどうだったのか、又は何一つ菜がなかったらどうだったか考えてみると面白いなと思いました。

どちらにせよ、イエスの信仰で動いたことにはイエスもそれを喜ばれる。
人の信仰は、言葉や行いから、伺い知るしかないのですが。
実際は信仰が先で行いや言葉が付いてくる。
ダンスなどでも男性がリードして女性がのびのびと踊る姿は実に綺麗ですね。
その様に主の霊が私たちの魂をリードしてくださって自由に踊らせてくださる時、私たちの体も一緒に動いてくれるなら3重の喜びです。
ゴルフでも習字でも何でも、イメージ(ビジョンも同じかもしれませんが)があり、その通りにトレース出来たときほど楽しいときはありませんからね。

私は彼女が本当に喜んで菜摘している風景が浮かびました。それほんとうに嬉しいですよね。
また、その心の裏側まで割と気楽に話してくれる友人との関係はまたいいなと思いました。

正直、良かったですねってそれだけのコメントか、又はコメントしないそんな人羨ましい気持ちもある。

もちろん良かったですね。
そんな話が聞けて私もうれしいです。
保護者
「火曜日の人と学び」って何かやっておられるのですか?
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事