石ころ

福音を見張る(使徒21章)




パウロは聖霊に導かれた人々によって繰り返し忠告を受けるが、自ら選択して縄目が待つエルサレムに到着した。
預言は人から示されたり御霊が直接教えられる中で、それが必ず成ることは承知の上で、その日その日みこころを行う。拒否する自由があっても当人にその気が無いのは、イエスさまの愛を知ってしまったからである。

次の日、パウロは私たちを連れて、ヤコブを訪問した。そこには長老たちがみな集まっていた。彼らにあいさつしてから、パウロは彼の奉仕を通して神が異邦人の間でなさったことを、一つ一つ話しだした。
彼らはそれを聞いて神をほめたたえ、パウロにこう言った。「兄弟よ。ご承知のように、ユダヤ人の中で信仰に入っている者は幾万となくありますが、みな律法に熱心な人たちです。(使徒21:18~20)


異邦人の救いに対して、共に神をほめたたえることは素晴らしいことだけれど、これに続く言葉には注意が必要である。サラッと流さず、パウロは此処で聖霊の導きを待つ必要があった。
パウロといえども、イエスさまの弟ヤコブたちに対して、人間的な気を使ってしまったのだろうか。

彼らが聞かされていることは、あなたは異邦人の中にいるすべてのユダヤ人に、子どもに割礼を施すな、慣習に従って歩むな、と言って、モーセにそむくように教えているということなのです。
それで、どうしましょうか。あなたが来たことは、必ず彼らの耳に入るでしょう。
ですから、私たちの言うとおりにしてください。(使徒21:21)


その提案は人のやり繰りと賢さによることである。それは律法と福音の架け橋のようであるけれど、古い革袋に新しいぶどう酒を入れる行為であった。
パウロが命を賭けて伝えていることは福音であり、イエスさまは律法を十字架で成就してくださった。それに人が何かを付け足すことは、十字架の御わざをないがしろにすることである。

イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3:3)


パウロは彼らが証明しようとした「律法を守って正しく歩んでいる」レベルにはいない。それは塵芥と脱ぎ捨て、ただ、キリストの御恵みによって救われた者として命を捧げて来たのである。律法に拠って歩んでいることとは相容れない。

イエスさまのことばを伝える者には、目を覚ましていなければならない相手が内にも外にもある。
最も心を配らなければならないのは、同じ信仰の内にある人の言葉である。純粋な福音を守る聖霊の働きを妨げないように、目を覚まし聞き耳を立てていることであり、このことを怠ると、互いに成長することができなくなってしまうからである。

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