石ころ

「主よ。私はどうしたらよいのでしょうか」(使徒22章)




千人隊長がそれを許したので、パウロは階段の上に立ち、民衆に向かって手を振った。そして、すっかり静かになったとき、彼はヘブル語で次のように話した。(使徒21:40)

捕らえられたパウロは、自分が教会を迫害したユダヤ人であること、イエスが今も生きて天から語られた体験を証した。

旅を続けて、真昼ごろダマスコに近づいたとき、突然、天からまばゆい光が私の回りを照らしたのです。
私は地に倒れ、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞きました。そこで私が答えて、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、その方は、「わたしは、あなたが迫害しているナザレのイエスだ」と言われました。(使徒22:6~8)

イエスさまに出会った時、それまで自力で立っていた場所が打ち砕かれ、見て確信して来たものが見えなくなる。
パウロだけが、御声を聞きわけることができたのは霊の耳が開かれたからである。教会への迫害が神に対する攻撃であることを、パウロは直接聞いた言葉で語った。

「主よ。私はどうしたらよいのでしょうか」と尋ねると、主は私に、「起きて、ダマスコに行きなさい。あなたがするように決められていることはみな、そこで告げられる」と言われました。(使徒22:10)


教会は神を冒涜するものだと信じていたパウロが、イエスさまを主と知った時に、「どうしたらよいのでしょうか」と言った言葉は完全な従順から出たことで、いのちを委ねて指示を仰いだ言葉である。

イエスさまのお言葉どおりに、パウロはアナニヤの言葉によって目が開かれた。その目で主を見るようになるのである。御声を聞いて主の働きをするようになるのである。

彼はこう言いました。「私たちの父祖たちの神は、あなたにみこころを知らせ、義なる方を見させ、その方の口から御声を聞かせようとお定めになったのです。」(使徒22:14)

パウロは、生まれながら聞いてきた言葉に拠らず、生まれながらに見てきたことにも拠らない。聖霊の臨在の中でみこころに導かれて生きて、キリストに在って死ぬ者になったのである。

こうして私がエルサレムに帰り、宮で祈っていますと、夢ごこちになり、主を見たのです。主は言われました。「急いで、早くエルサレムを離れなさい。人々がわたしについてのあなたのあかしを受け入れないからです。」(使徒22:17~18)


パウロは主を見て恐れを感じ、教会を迫害していた者であることを申し上げた。しかし、みことばに従う時に、自分がどの様な者であるかを語る必要など無い。主は先刻ご承知だからである。
ただ主の選びに信頼して従順するのである。主はそのまま「行きなさい」と言われる。

主は私に、「行きなさい。わたしはあなたを遠く、異邦人に遣わす」と言われました。(使徒22:21)

パウロには知識も言葉も備えられてあり、ローマの市民権も与えていた。主の時に用いて身を守ることができるように、あらかじめ備えられたものである。
彼が生まれる前からの主のご計画であり、すべての必要は備えられてある。だから、人のやり繰や心配はいらないのだ。
御真実な主はそれぞれのタラントに応じて、一切の必要を満たしていてくださる。

人々は、彼の話をここまで聞いていたが、このとき声を張り上げて、「こんな男は、地上から除いてしまえ。生かしておくべきではない」と言った。(使徒22:22)

自分たちが死に追いやったイエスを、今も生ける主として見たというパウロの告白は、ユダヤ人には受け入れられない言葉であった。イエスさまに出会う前のパウロのように・・。

真っ直ぐにみことばの事実を語ると、積み上げてきたものを覆す言葉に人は抵抗して霊を激しく攻撃する。みことばは霊が目覚めないと、受け入れることができないのである。

しかし、主は律法の捕囚となっている彼らに、また霊の眠る人々に語れと言われる。
神の愛は決して変わることがないからである。

さあ、捕囚になっているあなたの民のところへ行って、彼らに告げよ。彼らが聞いても、聞かなくても、「神である主はこう仰せられる」と彼らに言え。(エゼキエル3:11)

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