石ころ

日曜日はイエス様のお話を聞く 1.14


メッセージ 「ゲッセマネ」 ルカ22:39~46

 オリーブ山と呼ばれる場所は、何時もイエスさまが祈ったり、弟子たちとともに集まったりしている場所です。いよいよ十字架に架かられる日が近づいたとき、この場所で特別な祈りがなされたことが詳しく記されています。福音書の中でも、十字架と復活の次に重要な箇所です。オリーブ山には、ゲッセマネと呼ばれる園がありました。ルカは祈りの山と言う点を強調して、オリーブ山と記していますが、マルコとマタイはゲッセマネという場所を指定して書いています。ゲッセマネとは「油しぼり」と言う意味です。オリーブ山と言うくらいですから、オリーブの木が沢山栽培されていて、オイルを採るための圧搾機があったのだと言われています。今も当時の様子を偲ばせる古いオリーブの木が残っています。

 イエスさまは、弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と言われました。肉の弱さの中にあっては、常に葛藤があります。ここで言われているのは、単純に罪を犯さないようにという意味から、さらに深くみことばにのみ仕えるようにということまで、幅広い意味合いで語られていると思います。少し前の場面でも、
「しかし、あなたがたは、やがて起ころうとするすべてのことからのがれ人の子の前に立つことが出来るように、いつも油断せずに祈っていなさい。」(ルカ21:36)
と言われているので、弟子たちは、基本的にはその延長線上にある注意だと受け取ったことでしょう。
 
 他の福音書を見ると、イエスさまは、自分が祈っている間、ここに座っているように命じて、その中からペテロとヤコブとヨハネの3人だけを連れて、そこからさらに進まれ、
「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目を覚ましていなさい。」(マタイ26:38)とおっしゃっています。

 少し話はそれますが、イエスさまが、この3人をなぜ連れていかれたのかをお話しします。この3人は、ヤイロの娘がよみがえる場面や、イエスさまの変貌の場面にも立ち会っています。彼らは一番主のお心に近いお気に入りの弟子だったのでしょうか。そうではありません。律法は、真実を証言する場合2人または3人の証言を求めています。(申命記17:6,19:15)新約の時代でもすべての真実は2人または3人の証人の口で確認されると言われているからです。(マタイ18:16)彼らが特に大事な場面でイエスさまのそばにいることが許された本当の理由はイエスさまの生涯の事実を確認し証言するためです。何を確認するのでしょう。それは、この方が完全に神であり、そして、人であったということです。

キリスト教の世界には、くだらない神学や教理が山ほどあります。しかし、いつもお話ししているように一番大切なことはこのポイントなのです。イエスさまが特別な御方だと言わない教会はないでしょう。しかし、この御方のことを正しく証言しない教会は間違っているのです。「イエスは人である」と言うだけでも、「イエス様は神である」というだけでも、いずれもとんでもない間違いなのです。イエスさまは、完全に人であり、完全に神であったということです。
「愛する者たち、霊だからといって、みな信じてはいけませんそれらの霊が神からのものかどうかを、ためしなさい。なぜなら、にせ預言者がたくさん世に出て来たからです。人となって来たキリストを告白する霊は神からのものです。それによって神からのものを霊を知りなさい。」(Ⅰヨハネ4:1~2)
このことを正しく告白させる霊が聖霊なのです。

 祈りの中身に戻りましょう。「悲しみのあまり死ぬほどです。」とイエスさまはおっしゃいました。神のひとり子がお感じになった「死ぬほどの悲しみ」とはどのようなものなのでしょうか。また、その悲しみをもたらした原因は何なのでしょうでしょうか。そして、弟子達に理解できるはずもないこの感情を吐露された背景には何があるのでしょうか。

 弟子たちの思いとイエスさまの思いはあまりにもかけ離れています。弟子たちは何処までもイエスさまに従っていけると思っていますが、イエスさまは全員が裏切って、我が身かわいさに全員が散り散りに逃げて行くことを知って居られました。お互いが愛し合って仕え合うことを説かれますが、弟子たちは自分たちが裏切ることも、イエスさまがどのような最後をとげられるかもわからずに、誰が一番偉いかを論じたりしているわけです。 そして、ゲッセマネでは、眠りこけてしまうどこまでも役立たずの弟子たちでした。物理的には40~50メートルの距離しかないわけですが、弟子たちとイエスさまの間は、とんでもなく離れていました。

 それでもイエスさまはそんなとんちんかんな弟子たちに、感謝のことばを述べられるのです。
「けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。」(ルカ22:28)
私たちは、このような場面で語られたイエスさまのことばに何を感じるでしょうか。
 
 罪人が、罪なき者が罪を背負うことの葛藤を知る由もありません。神との和解を要する者が、神と完全にひとつである状態が引き裂かれる苦しみを予感されて、悶えるその痛みを推し量ることなど不可能です。このときの弟子たちに、そんなゲッセマネの苦しみを理解できるわけがありません。

 それでもイエスさまは弟子たちの存在そのものを喜ばれたのです。役に立つとか立たないとか、能力があるとかないとかではなく、神は神から生まれたものを愛するのです。ただ、そばに置いておくだけでイエスさまは嬉しいのです。どこが正しくどこから間違っていようと、「あなたは幸いだ」と褒めているときも、「下がれサタン」と叱責しているときも、イエスさまは弟子たちがかわいくて仕方がないのです。

 この後、ペテロはイエスさまがおっしゃったとおり見事に裏切ります。(ルカ23:60~61)鶏が鳴いた瞬間、ペテロはイエスさまのことばを思い出します。そのとき、イエスさまは振り向いてペテロを見つめました。そのときのイエスさまのまなざしをペテロは忘れることはないでしょう。もし、そのまなざしが、恨みや怒りのまなざしであれば、ペテロは立ち直ることはできなかったでしょう。子であれば、何度失敗しても愛されなくなることはないのです。子どもが窮地に陥るときこそ、親は何とかしてやりたいと思うものです。だからこそ、前もって厳しい宣告を与え、失敗した時には、責めるのではなく赦し励ますまなざしをおくるのです。

 ゲッセマネで、弟子たちはイエスさまが何を祈っておられるのかも、よく分からなかったと思います。ただ、イエスさまが苦しんで居られるのを見ました。何かとんでもない恐怖や悲しみがイエスさまを襲っているのを見ました。弟子たちは眠ってしまいましたが、それは悲しみの果てでした。弟子たちはその時分かる弟子たちなりの悲しみを共有したのです。

 これが神から生まれ神の子とされた者に与えられた特権です。
「この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。 この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。」(ヨハネ1:11~13)

 父に対して祈られた内容を見てみましょう。
「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」(マタイ26:39)
これは十字架を回避する可能性についての祈りです。イエスさまは十字架に架かるためにこそ生まれ、まさにその時を前にして激しく苦しんで居られるのです。
「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」と書かれていますが、与えられた御子イエスさまは私たちと同じように肉体を持ち、意志や感情があるわけです。イエスさまの中には、「出来るならば十字架を避けたい」という思いがありました。もしそれがなかったとしたら、十字架はこれほどまでに私たちの心を動かすことはないでしょう。

しかし、イエスさまは「私の願いではなく、あなたのみこころのように」と言われたのです。これがゲッセマネの核心部です。そこには罪人への愛以上に父への従順の姿があります。そして、この祈りが聞き入れられ、イエスさまは裁かれ捨てられるのです。ゲッセマネは油しぼりです。どのような植物油も圧搾されすりつぶして取り出します。聖霊のことばやわざが現れるためには、そのような苦しみの中で従順であることによってもたらされるのです。

「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」(ヘブル5:7)
このみことばの続きを見れば、イエスさまが苦しみの中で従順を学ばれたことが記されています。

 油はみこころを無視した私の願いの上に注がれるものではありません。みことばに対する従順と、御父のみこころを願う従順の結果もたらされるのです。
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。」(ヘブル12:2)
イエスさまの前に置かれた喜びとは何でしょう。それは、永遠に購われた弟子たち、永遠の子ども達をそばに置くことなのです。

「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。
17:25 正しい父よ。この世はあなたを知りません。しかし、わたしはあなたを知っています。また、この人々は、あなたがわたしを遣わされたことを知りました。
17:26 そして、わたしは彼らにあなたの御名を知らせました。また、これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです。」(ヨハネ17:24~26)

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