神の選びの民である者が、国破れて異国の王に使えるようになった。ダニエルは王に愛され重用されていた。
しかし、彼は王に調子を合わせて、偶像を礼拝することはなかった。
「ひれ伏して、私が造った像を拝むなら、それでよし。しかし、もし拝まないなら、あなたがたはただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう。」(ダニエル3:15)
虐める相手に対して反論するよりも、愛してくれる人に反論することは難しいことである。調子を合わせることができたらどれほど楽だろう・・。しかし、そうするなら神のご計画が成ることはない。
「もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。
しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」(ダニエル3:17~18)
「もし、そうでなくても」この言葉がない信仰は脆い。この後、燃える炉で無傷の彼を見た王は、ダニエルの神をほめたたえた。
神のご計画を、人は初めから終わりまで知ることはないので「もしそうでなくても」なのである。
たとえ燃えて炭になっても、ダニエルの「神は愛」であり、愛されていることに何の変わりもないのである。これが彼が啖呵である。
神の愛の中でなら、燃えさしになるよりは炭になるほうが愛は鮮やかであり、この王の炉は炭にはならず完全に燃え尽きよう。
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