創世記に書かれている事実。神様の素晴らしい創造物のすべては私たちに賜るためのものであった。
「神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。』」(創世記1:28)
神様は園で人を求めて呼ばれた。
「そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。『あなたは、どこにいるのか。』」(創世記3:8)
しかし、神様は人をご自身のみと交わるものとはされず、男と女とに造られて人間同士で喜びを共有することが出来る者とし、また繁栄するように造られた。
また、いのちの木と善悪の知識の木を園に置き、彼らに選択の自由も与えられた。それが危険であることは分かっておられたと思うけれど、それほどまでに人が意志を持って応えることを求められたのだろう。神様を愛し、慕う人の愛を・・。
甘えてまとわりつくペットはたまらなく可愛いくて、彼らを失った時は心に大きな穴が開いたようになるほどだけど、それらは時には反抗もする。犬なら噛んで怪我をさせられることもある。
今は、ロボットのペットも売っていて、甘え、命令に従うこともある程度できるらしいけれども、それらは絶対に反抗しない。それは決められた通りに反応しているだけ。それらは意志を持っていないから、何十年一緒にいても愛の応答は生まれない。
神様は、人が善悪知識の木の実を食べてしまって、神様を離れ、自身のやりくりで生きるようになった後、いのちの木の実を食べて永遠に生きることがないようにと園を追い出された。けれども、その後も救いの計画を立て人に関わり続けて下さった。
創造されたものを人に与えられた神様は、私たちの反抗の結果、ひとりの子の御子をもあがないのための十字架に下さることとなる。
「これは、わたしの愛する子」このみことばは母である私の心に染みる・・。そのみ声に父である創造主の温かい愛を感じることが出来て、近しく感じてしまう。
それほどの愛によって救われた私たちは、御子の十字架を通ることだけを条件として、神様の愛の対象として存在することを求められているのだと思う。
私には主のご愛がどれほど分かっているのだろう・・。すごい経験ではなく日々の静けさの中で、もっともっと近しくいて下さる主のご愛を感じ取りたい。穏やかな日々の中ででも、ご真実なお方の愛に敏感でありたいと願う。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。」(イザヤ43:4)
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