石ころ

向きを変える時(使徒9章)




サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。(使徒8:1)

サウロ(パウロ)は熱心にみこころを行っているつもりだった。聖霊によらないとイエスを主とは呼べず、彼の行いは的外れで「何をしているのかわからない」状態だったのである。

ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。
彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。
彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。(使徒9:3~5)

サウロは神の選びの器であった。彼が間違っている間もご計画が変わることはなかった。
神の時にイエスさまは現れて彼の熱心に介入された。聖霊の導きによってみこころを成すためである。

サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。
彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。(使徒9:8~9)

芋虫がサナギになる時は、吐いた糸で身を包みドロドロに溶けて死んだようになる。それは芋虫の記憶が消去されて蝶が造られる時間である。
主はアナニヤを遣わされて、サウロの目を開かれた。

そこでアナニヤは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」
するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、食事をして元気づいた。サウロは数日の間、ダマスコの弟子たちとともにいた。(使徒9:17~19)

昨日の敵サウロに、「兄弟」と呼びかけるほどのアナニヤの従順に感動する。敵が目の前で無力に衰弱している姿を見て、一切過去に触れずに仲間として受け入れ、癒して再び力を与えることは、どれほどの赦しと勇気が必要なことだろう。

迫害された兄弟姉妹への感情を、脇に置いてみこころを行うには、主を愛する以上に愛する者を持たないことであり、聖霊の導きによって主の愛に満たされてこそ可能なことである。

サウロは、目から落ちたうろこを拾って張り直すようなことはしない。
新しくされたサウロはステパノの死を語らず、過ぎ去った日を悔いることはなかった。神の御手に完全に伏したからである。

ただ聖霊の導きに従い与えられた仕事の中で、ステパノの分まで生きて「この方こそ神の子」と数々の試練の中で知らせ続けた。

あの人はわたしの名を、異邦人、王たち、イスラエルの子孫の前に運ぶ、わたしの選びの器です。彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。(使徒9:15~16)

イエスさまに出会ったサウロもアナニヤも、主に従順して向きを変えた。サウロを受け入れ助けた弟子たちも、自分たちの中にある記憶や感情に従わず、みこころの通りにサウロを愛して助け続けた。
そのような人々によって教会は建て上げられ、異邦人の私も福音の恵みに与ったことに、信仰の先人への深い感謝の思いと、親しみのような愛を今日は感じた。

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