石ころ

七回を七十倍するまで赦すキリスト

 

 私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。(マタイ5:12)

 

主の祈りには、少なくとも赦されただけは赦すように書かれている。キリスト者は日々に際限なく赦されて生きている。赦す回数を七回までというペテロにイエスはこのように言われた。これは数えきれないことであり無限に赦すことである。

 

わたしは七回までとは言いません。七回を七十倍するまでです。(マタイ18:22)

 

敵の成したわざが如何に暴虐に満ちた所業であっても、それを行ったのが人である限り、イエスはその人のためにも十字架で聖い血潮を流されたのである。その血潮のあがないは、キリストに応答し悔い改めて礼拝する者に成就するのであるが・・。

 

サタンは業を人を借りて行う。此処に人は呻き魂を引き裂かれる弱さがあるのである。主にある戦いが血肉のものではないことを知っているからである。

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12)

 

サタンが血肉の戦いに誘導するのは、そこに信仰の弱点があることを知っているからである。心をかき乱す敵の暴虐を見せつけられる時、人の愛は正義をかざして敵を殲滅しようとする。それは同胞を愛するゆえであり自分自身を守るためでもある。

 

人を指して「サタンだ」と攻撃させるのはサタンのやり口である。イエスを指して「ベルゼブルの仲間」と宗教家に言わせたのだ。

これを聞いたパリサイ人たちは言った。「この人が悪霊どもを追い出しているのは、ただ悪霊どものかしらベルゼブルによることだ。」(マタイ12:24)

 

イエスは彼を滅ぼすことはされなかった。いや、彼らを救うために命をお与えてなったのである。此処にサタンに対する主の完全な勝利がある。

敵を赦すことはサタンとの格闘である。それは自分自身の肉の弱さとの格闘でもあり、主に信頼しなければ絶対に勝利出来ないことである。

 

 主は信じる者に無条件で完全な赦しを与えてくださった。信仰によって神の子とし、今キリストのうちに住む者に平安を満たしていてくださので、主に信頼してサタンの惑わしに勝利することが出来るのである。

愛する人々への悪魔の所業の前で冷酷なように見えても、真の敵に勝利するために静まり、祈りのうちに沈黙しなければならない時間がある。呻く他ない霊の祈りに身を避けて静まるのである。

 

キリスト者はみことばのゆえに弱い者である。敵に対して無力な者なのである。しかし、みことばの剣を帯び信仰の盾を構える者にサタンは何も出来ないのだ。

 

これらすべての上に、信仰の盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢をすべて消すことができます。(エペソ6:16)

捕らわれの身になるべき者は捕らわれ、剣で殺されるべき者は剣で殺される。ここに、聖徒たちの忍耐と信仰が必要である。(黙13:10)

イエスは彼に言われた。「剣をもとに収めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。(マタイ26:52)

救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。(エペソ6:17)

 

この世は罪による理不尽に溢れ正義が成る所ではない。どれほど信仰深い人であってもこの世は神の国ではなく、天に向かう道筋に過ぎないのである。

神はひとり一人にそれぞれが歩む道を準備された。それは一人で通る細い道である。誰も同じ道はなくそれぞれに準備されている道である。主がひとり一人の造り主であり、神との交わりのために備えてくださったのである。

 

共に教えられたり教えたりはしても、ひとり神の御前に聴くみことばに拠って導かれて行くのであり、主を信じる者には、一つの御霊による真実で甘いお交わりがある。共に主をほめたたえ喜び分かち合って成長して行くためである。

 

道を迷わず走り続けるエネルギーは、みことばを反芻して味わう中にあり、聖霊に導かれる力にある。自分の手足、頭も心もすべてを用いて、命の時間を天に向かって駆け抜けるのである。世はそのために与えられている時間なのだ。
今、ロトの妻のように世を振り返らないで・・。

 

 この世に神を探し求めても此処には居られない。主が備えてくださった道を行く時に、出会ってご自身を解き明かしてくださるのである。主が備えられた道にしか神は居られない。
世は困難な問題の中で「神は居ない」と結論するが、キリストを無視しているから備えられた救いの門を見いだせず、神なき道で迷うのである。

 

救いの門をスルーした人々は群衆となって、それぞれ自分たちの神々を建て上げ、それぞれの正義を掲げて争い、時には和合し、損得計算をして奪い合う。そこにはサタンの計画がある。神が愛する者を奪い取り滅びに引き込むためである。

 

しかしキリストによって備えられた道は、十字架の血潮が流れている道である。聖い血潮に洗われて走る者は赦されてあり、世のあらゆる問題の中でどんなに弱く見えようとも、みことばに従う勇気を持っているのである。

 

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。(へブル12:1)


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事