二人の息子がいた。
弟のほうが父に、「お父さん、財産のうち私がいただく分を下さい」と言った。それで、父は財産を二人に分けてやった。
それから何日もしないうちに、弟息子は、すべてのものをまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して、財産を湯水のように使ってしまった。(12~13)
弟は飢えて父を思い出し戻って来た。父は遠くから彼を見つけて迎え入れ祝宴を開いて祝った。
仕事から帰って来た兄はこのことを怒って、父がなだめても家に入ろうともしなかった。
兄は父に答えた。「ご覧ください。長年の間、私はお父さんにお仕えし、あなたの戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しむようにと、子やぎ一匹下さったこともありません。
それなのに、遊女と一緒にお父さんの財産を食いつぶした息子が帰って来ると、そんな息子のために肥えた子牛を屠られるとは。」(29~30)
彼の言葉がその心の中を現わしている。弟が父に対して行った罪を怒っているのではなく、放蕩の汚れを嫌悪しているのでもない。父が弟を赦したことを怒り、父の心を支配しようとしているのである。
彼にとって父は自分の働きを評価し、感謝してくれるべき存在であって、父の願いには何の興味も無いのだ。それゆえ放蕩した弟を喜び迎える父の愛が、自分とっても同じ愛であることに思い至らないのである。それは、父に赦されている存在であることに気づいていないからであり、あるいは良い働きの故に当然であると思っていたのであろう。
弟は何一つ良いことをしなかった。父を蔑ろにし欲望のままにやりたい放題をした罪人である。しかし彼は飢え渇き死を経るような経験によって、すべてに豊かな父の存在を思い出したのである。
父を喜ばせたのは兄ではなく弟である。父の元から一度失われたけれど戻って来たことで、浪費した財産は父を知るための授業料として実を結んだのだ。
父はこの日を期待して、息子を遠くの道に見つけようと待っていたのである。
兄息子は執りなす父の言葉を拒絶して家に入らず、彼の心は父の愛に満ちる家から遠く離れている。彼は弟と同じように分けてもらった財産を使い果たすことは無く、それゆえ飢えも渇きも無く、いつも側にいる父を必要とすることも無い。
弟は父が準備した宴会で父に着せられた着物を着て、はめられ指輪をはめて、履かせられた履き物を履き、使用人のようではなく父の息子として振舞った。それが父の栄光だからである。
如何なる過ちを犯したとしても、父に赦された者は与えられた分を受け、父に準備された役割を果すのである。それが父の喜びとなるからである。
父を拒む兄は父の悲しみとなる。彼が弟の罪を妬んでその罪に囚われているのは、弟の放蕩が羨ましいからである。しかし、彼はその思いによって自分が弟と同じ罪人であることに気づくことはない。だから彼は父の赦しを経験することも無く、赦される甘さを知ることもない。
父は彼に言った。「子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。」(31)
彼は「私は父に良いことをして来たが、報酬は何一つ受けていない」と抗議している。父のものは全部お前のものと言われても、父から受けても用いることはなく、父の愛を経験しよともせず、死を経るような飢えも渇きもない故に、父の持っている財産というものが分からないのである。