石ころ

「富」という手足纏い

 

 アブラムは家畜と銀と金を非常に豊かに持っていた。
彼はネゲブからベテルまで旅を続けて、ベテルとアイの間にある、最初に天幕を張った場所まで来た。
そこは、彼が以前に築いた祭壇の場所であった。アブラムはそこで主の御名を呼び求めた。(創世記13:2~4)

 

アブラハムはその祭壇の場所で主を礼拝した。しかし、その平和は続かなかった。平和を破ったものは彼らの富であった。

 

アブラムと一緒に来たロトも、羊の群れや牛の群れ、天幕を所有していた。
その地は、彼らが一緒に住むのに十分ではなかった。所有するものが多すぎて、一緒に住めなかったのである。
そのため、争いが、アブラムの家畜の牧者たちと、ロトの家畜の牧者たちの間に起こった。(創世記13:5~7)

 

彼らの豊かさによって礼拝の静けさが破られ、親戚が共に暮らす交わりが続けられなくなった。ロトは肥沃と見える地に下って行くが、後に彼の妻が塩の柱になってしまう悲劇の根も、此処にあったのだ。

 

 パウロはイエスに出会って、信仰の邪魔となるものをすべて塵芥として捨てた。ただ、必要を時に満たしてくれた人の信仰に対して、喜びの手紙に残している。パウロの財産は主にある兄弟の愛であった。

 

私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。(ピリピ4:12)

 

また、主は彼にすべてに勝利する秘訣を授けておられた。それは、人に頼ることではなく、主に信頼して生きる秘訣であった。それが、彼を如何なる時にも、身軽にして主に従うことを容易にしたのである。

 

新約の時代の私たちの富はキリスト。私たちの財産はみことば。それはどんな時代になっても誰も奪うことは出来ず、永遠に至るいのちであるから・・。

 

だれも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは神と富とに仕えることはできません。(マタイ6:24)


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