石ころ

バベルの塔 (創世記)

 

 人は言った。「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」(3:12)

 

アダムが禁じられた木の実を食べたことを問われた時、神に言った言葉である。人は罪を知った瞬間から、神を責めるようになってしまったのだ。

今も、好調の時には思い出しもしない神の存在を、不本意な事が起こるたびに「なぜ、神は」と責めるのである。
愛するひとり子の命をもって、それらの罪をあがなってくださっている方に・・。

 

 ノアは主のために祭壇を築き、すべてのきよい家畜から、また、すべてのきよい鳥からいくつかを取って、祭壇の上で全焼のささげ物を献げた。
主は、その芳ばしい香りをかがれた。そして、心の中で主はこう言われた。「わたしは、決して再び人のゆえに、大地にのろいをもたらしはしない。人の心が思い図ることは、幼いときから悪であるからだ。わたしは、再び、わたしがしたように、生き物すべてを打ち滅ぼすことは決してしない。(8:20~21)

 

人は罪を教わらなくても生まれながらに知っている。親は嘘や我儘や争いを教えることはしないけれど、物心がつく頃から行いに現れてくる。

教育によって罪を治めることを躾けられるが、しょせんそれは取り繕いでしかない。罪の解決ができていないからである。

 

 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作って、よく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを、漆喰の代わりに瀝青を用いた。(11:3)

 

人の知識や知恵は発展して次々と優れた物が現れるが、それがどんなに優れたものであっても、神さま抜きに用いられるそれらには、罪という混ぜ物が潜んでおり、時が至って滅びをもたらせるものとなることがある。人には永遠を見通すことは出来ないからである。

 

彼らは言った。「さあ、われわれは自分たちのために、町と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。われわれが地の全面に散らされるといけないから。」(11:4)

 

人は神の支配や介入を恐れる。神が愛して創造された作品であることを信ぜず、神に対抗して我儘を死守しようとするのである。それが、神が取って食べてはならぬと禁じられた実を食べたアダムの結果である。

 

そのとき主は、人間が建てた町と塔を見るために降りて来られた。
主は言われた。「見よ。彼らは一つの民で、みな同じ話しことばを持っている。このようなことをし始めたのなら、今や、彼らがしようと企てることで、不可能なことは何もない。(11:5~6)

 

神に従うための一致には困難が多いが、神に逆らうための一致団結は、罪の性質に酔っぱらうように簡単に喜びをもたらせる。その時、人はどんなことでもやってしまうのだ。


動物には決してできないほどの殺戮も、人の悪知恵を働かせ団結してなし得るのである。その被害を受けた時、「神は、なぜこんなことを許されるのか・・」と言うのだ。

 

「さあ、降りて行って、そこで彼らのことばを混乱させ、互いの話しことばが通じないようにしよう。」
主が彼らをそこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。(11:7~8)

 

神は大洪水によって地にある悪をすべて滅ぼされたが、ノアを通して増えた民の計ったことが、神を抜きにするバベルの塔を建てることであった。


神は再び人を滅ぼさないために、言葉を混乱させて民族ごとに全地に散らされた。神に対抗する悪の増大を避けるためである。

 

しかし今も人は、神に対抗するための一致を、巧みな言葉に包んで計り続ける。それは愛のヒューマニズムや、楽し気な祭りという仮面をかぶっているから、その本質を見抜くことは容易ではない。それは人の肉性を喜ばせ、満足と達成感を与えるからである。

 

 バベルの塔以来、同国人であっても言葉は通じ難くなった。伝道には言葉が通じないもどかしさが付きまとう。まあ、明確に通じた言葉によって拒絶されもするが・・。

 

人のコミュニケーションも、聖霊の執り成しの中でこそ真の理解や一致が得られる。それが国家間にも、社会にも、家族にも健全な関係を築き、真実な交わりとなるのである。

 

言葉の理解に齟齬があっても、思いやりや愛が足りなくても、初めに神に選ばれてある人であれば、どんなに鋭いみことばも痛みのうちにも心に留まって、聖霊の導きの中で救いの実を結ぶことを信じている。

救いは人のわざではなく神のわざであり、聖霊によってみことばが生きて働くからである。

 

 人類の最大の罪は、造り主なる神の愛を無視することである。神の作品であることを否み、あらゆる理屈を連ねて服従すべき関係を認めない。


その罪の強情さは、神に造られたよりは、猿から出たものの方がマシだと思うほどである。

 

聖霊に触れられない限り、人は造り主なる神を無視する罪を悟ることができない。

そのために、キリストはあがないの十字架で死んで、墓に葬られ、三日目によみがえって天に昇り、人を教え導く聖霊の神が、助け主として来てくださったのである。

 

人には、キリストを頭として、御霊によって結ばれた一致のみが救いに至る道であり、神の望んでおられることである。
神はそのために多くの犠牲を払って忍耐し、赦しのための時を備えて、今日も待っていてくださる。

 

命のある今、自分の意志でキリストを救い主と信じ、素直に自分自身を差し出してひれ伏さなければならない。死んでからでは、誰にどれほど祈られようとも、神の備えられたチャンスは戻ってはこないのである。

 

人が創造主なる神を礼拝する。その自由の中でなされる選択にこそ、神がエデンの園に善悪知識の木を置かれた意味がある。
神の愛を知ってひれ伏す謙遜な信仰こそ、神の喜ばれる捧げものであり、その神と人の平和な喜びの中に栄光が現れるのである。


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