石ころ

荒野の備え②(民数記2章)

 

主はモーセとアロンに告げられた。
「イスラエルの子らは、それぞれ自分たちの旗のもと、自分の一族の旗じるしのもとに宿営しなければならない。会見の天幕の周りに、距離をおいて宿営しなければならない。(1~2)

 

主が治められる所には、それぞれに割り当てられる分があり、其処に整然とした平和がある。イスラエルの民は主に拠って、空の星、海辺の砂のように増え広がって行った。すべては神のご計画によることである。

 

イスラエルの子らは、すべて主がモーセに命じられたとおりに行い、それぞれの旗ごとに宿営し、それぞれその氏族ごと、一族ごとに進んで行った。(34)

 

試練の中で人が主により頼むことは易しい。荒野で主に従うことによってのみ、この膨大な集団の移動の間も、誰も飢えずに主に養われたのである。彼らの命の守りのすべては、神がどれほどに力あるお方であり、その備えのご真実であることを現わしている。

 

荒野でさえも主が伴われるとき、無限に養うことができる神を、聖書に刻まれた歴史によってキリスト者は知ることが出来る。

なら、この世に何が起ころうとも、主が霊のうちに住まってくださる者を、命の限り養ってくださる。時が来たらさらに確かな永遠に移し、完全な聖いからだをたまわり、御許で主を喜び続ける日が来るのだ。

 

キリストを信じ信仰を告白して救われた者は、その瞬間から永遠のいのちをたまわっており、肉体の死は通過点に過ぎず、真の愛なる神にお会いする祝福が、その先に待っているのである。

 

この方に依り頼む者が、明日を誰が心配したり思い煩う必要があるだろうか。悩むべきは「主が命じられたとおり」であるか・・ということである。

「やめよ。知れ。わたしこそ神。」という御声を聴くなら、すべてを止めて静まることにより、従順な歩みを全うするのである。

 

「イスラエルの子らは、それぞれの旗ごとに宿営し」キリスト者には十字架の旗印しがあり、それぞれキリストからたまわった、十字架を負って集まる。

それには、個々に主に愛された歴史が刻まれてあり、互いの十字架を見上げて、主をほめたたえ賛美するのである。


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