もう、委ねきっていてもなかなか寝付けなくて・・、それでもいつの間にか眠りに落ちていた。
日曜日、朝食をすませ家族の昼食の準備をして表に出ると凍てつく雪景色!
昨夜の悪天候という予報には平安はあった。主が命じられたのだからきっと行くことが出来るはず・・。
ただ、気遣ってくれる主人に「大丈夫、大丈夫」と言いながらも、足元の滑りやすさに少し怯えながら歩き出した。
足元から目を上げて、真っ白な山々や梢を見たとき、主がこの雪景色の意味に気づかせてくださった。この雪は、主が私に準備してくださった一つのしるしだってことに・・。
その時、車が音もなく近づいて来て御近所の方が「何処に行くの」と、駅まで運んで下さった。ああ、主の備え・・。
私の生まれた日、雪が降っていて母は「雪子」という名を付けたいと言った・・
結婚の荷物が出る日も3月の雪が降った・・
洗礼を受けた日も雪が降っていた・・
そうして、今日を雪で覆ってくださった主。
主がご自身を現してくださったことを悟って、これから始まることに勇気が沸き、緊張が解けていった。
主に服することができるのは、忍耐強い主のお導きがあってのこと。
疑い深い私の問いにすべてに答えてくださって、もう何も言えなくなっての服従だったから・・綿密なご計画で導き、すべてを備えて私を運んでくださる主。
事はニーの「権威と服従」を読んだときから始まった。それも、色々な経緯の中で貸し与えられた本だった。初めは飛びつき、自分でも買おうと注文したけれど手に入らなかった。
しかし、「代理権威」という言葉に対して、私の中で激しい反発が起こり本を放り出してしまった。
しかし、バレンタインデーに、長らく借りっぱなしになっている本をお返しすると共に、チョコレートを贈ろうと思い至って、いや、そうせずにはいられなくなって、取りあえず流し読みでもしておこうと再び手に取った。
読み出しすとやはり流し読みなどできなくなって、結局キリストの従順には言い逆らう言葉を失ってしまった。もし、あの時同じ本を手に入れていたら読まないままに返し、それで終わりだっただろうと思う・・。
「あなたも服従を学びなさい。」と迫られたとき、今の自分に何が欠けているのかはっきりと知らされた。服従する場を持っていないことは祝福の大きな欠けであること。謙る対象を持たないままの自分の危うさを・・。
それでも、内に恐れや言い訳もあり、激しい戸惑いの中にあったとき、右の太腿が痛み動くことが辛くて困っていた。それで椅子に座って簡単なお祈りをした。
「そのことがみこころでしたら、この痛みを癒してください。」
立ち上がったとき、痛みはなくなっていた。まあ、初めから、内心こうなるだろうことに気づいていたのだけれど・・。
次に「では主よ。一体何処に行くのですか、もしAなら明日の朝体重を減らして下さい。」と祈って眠った。それは思いつきのような事だったのだけれど・・。
朝、体重計で見て驚いた。前日よりもきっちりと500gも増えていたから・・。
この時は笑ってしまった。そうして翌日量ると元に戻り、500g減っていたのだから念の入ったことである。
ギデオンのように用心深くみこころを確かめても、打てば響くように回答が与えられると、もう逃げる道はふさがれてしまった。
しかし憐れみ深い主は、そのようなネガティブな面からだけではなく、死んで満たすことが出来る祝福をも黙示録から示してくださったことによって、とても前向きな気構えを与えてもくださった。
いざ具体的に従うに当たって、やはり私は「一度出た所に、どの面下げて行けるのか・・」そう思った。しかし、主が命じられたことを無視することの恐ろしさも、今までの信仰生活の中で身に染みて知っているのだ。
だから、一度電話をして根回しをしてからと思っていたのだけれど、その時電話はなぜかシンと音沙汰なく通じなかった。もう二度と電話はしないと決めた。
「主よ。ではいったいどのようにして行けばよいのですか」ふてくされるように主に聞いたとき、「わたしの教会へ、わたしの命令によって行くのだ。黙って座ればよい。」と知らされた。
「わたしの教会」に打たれた。それは確信を与える言葉だった。受け入れられたなら、そこは主の教会に間違いないということである。
行って黙ってマリヤのように座って聴けと・・それが主が置かれた私の服従の場であることに、やっと納得することができて私は安息した。静かな死のように・・。
教会のドアを開けるときには懐かしさ・・嬉しさがこみ上げてきて、「ただいま~」ってそんな感じで、「おはようございます~」と自然に声が弾んでいた。
すべての説明は、「『わたしの教会へ、わたしの命令によって行くのだ。黙って座ればよい。』と主に命じられました。」それだけだったけれど・・そんな言葉が、そのままですんなりと通じた!
祈りの中で待っていて下さった事を知り、温かい手に包まれたとき、主のお憐れみ、愛深い備え、主に服従することの甘さをまた経験させてくださった。
7年間はまるで昨日のことのようで、自然に交わり、軽口を言い合った。
「主よ。私をあわれんでください。私は一日中あなたに呼ばわっていますから。」
教会の今年のみことばを知ったときジンと内に浸みて、生きておられる主に向かって私も心を合わせて礼拝した。
コメント一覧
石ころ
candy
石ころ
イチゴ
最新の画像もっと見る
最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る
最近の記事
カテゴリー
バックナンバー
人気記事